Wildman 名前の由来

1990年、Pinstriperとなって1年が経った頃、初めてアメリカを訪れユタ州のEd Rothの元へ行く事になりました。1989年の日本の3rd. Annual Mooneyes Street Car NationalsでRoth本人に会ってそのパフォーマンスをライブで見て感動し、Pro Pinstriperになる事を決意しましたが、今度はアメリカで再会し新たにRothよりPinstripeについて学びたく思っていました。LAXにてRothと落ち合い、クルマで遠くユタ州の彼の家に向かう訳ですが、狭い室内の彼の愛車Mazda Pick upの助手席に乗ろうとすると、「何、やってんだHiroが運転していってくれよ」ととんでもない一言が!初めて来たアメリカで初めての運転でそんな距離を走らされるとは思ってもいなかったので正直焦りましたが、フラフラとFreewayを走り、朝だか夜だか分らない時間に何とかユタのRoth宅に到着しました。するとそれまで殆ど眠っていたRothが言いました、「いや〜初めてのアメリカでよくこんな所まで運転してきたな!おまえをWildman と呼ぼう!」の一言でRothより"Wildman石井"という名前を命名していただきました。

Here is a story for people who are not familiar about why Pinstriper Mr. Ishii is called "Wildman" Ishii. He was named "Wildman" by ED "Big Daddy" Roth. It was when Mr. Ishii traveled to Utah to be trained as Pinstriper by Ed "Big Daddy" Roth at his home. Ed "Big Daddy" Roth was only expecting Mr.Ishii to drive from airport in Utah but when Ed Roth found out that Mr. Ishii actually drove all the way from LAX airport in California, Ed "Big Daddy" Roth had to say "Oh! You are Wildman!. Let's make your name "Wildman" So his name "Wildman" has been called since then. Good story isn't it.

WILDMAN の作品

幻のデメキンスバル(のミニカー)を求めて23年費やしました

前回のお話でウチのおやじの最初の愛車、デメキンスバル360の事を語らさせて頂きましたが、いてもたってもいられなくなり、久々にミニカーの話題にシフトします。 Wildmanは今から33年前の1975年よりミニカーコレクションを始めているのは、色々な所で何回も勝手にしゃべっておりますが、現在では泥沼と化したコレクションを始めた動機はいくつかあるのです。その一つは75年に手に取ってしまった、日本屈指のミニカーコレクター中島登氏による名著「世界のミニカー」という本がコレクション開始のきっかけの一つなのです。懐かしいカラーブックスシリーズのその本には、Wildmanが力説する「当時物」の世界中の絶版ミニカーが網羅されていたのです。「旧いミニカーを集めるなんて、こんな世界があったんだ・・・」と感動する小学5年生のガキはその本の巻末近くに掲載されていた2台のミニカーに釘付けになりました。 「こ、これはおやじが乗っていたデメキンのスバルではないか!!!ミニカーがあったんだ!」70年代当時はスバル360のミニカーなんて一切存在していませんでした(今でこそ昭和懐古趣味でスバルのモデルなんて腐るほど作られていますが・・・・) Wildmanのミニカーに対するポリシーである「ミニカーというのは実車生産時期とシンクロしていなければならない、当時の同じ時間に同じ空気の元に同じ技術で作られていないミニカーなんて意味が無い」という変態の持論はこの頃より確立されていました。「2008年に2008年の高い技術で作る1959年型のスバルのミニカーなんて認められない、1959年型であればその当時に作られたミニカーのみが本物だ」という身勝手な事を言っておりますが、変態初心者の方はあまり気になさらないで下さいね。 「世界のミニカー」という本に載っていたデメキンスバルのミニカーは2つのメーカーからリリースされていました。一つは昨年のブログで「国産ミニカー第1号誕生」というタイトルで観音クラウンのミニカーで力説させて頂いたアサヒ玩具のモデルペットのNo,3のスバル360が紹介されていました。昭和35年3月発売のこのモデルは国産ミニカーとしては3番目に販売された物でした。出来自体はクラウンに比べると数段劣る物だと小学生なりに分析していました。 そしてもう1台のスバルは大盛屋ミクロペットというブランドから出ていました。「ミクロペット?なんじゃそりゃ、そんなメーカー知らないぞ」と小学生は悩みました。しかもどう見てもモデルペットのスバルよりもミクロペットの方が出来がいいのです。 モデルペットのミニカーはシリーズとしては昭和48年まで生産されていたので、昭和39年生まれのWildmanも知っているブランドでしたが、調べてみると大盛屋ミクロペットのほうは昭和40年に生産が終わっていたのです。「なんという事だ!こんなミニカーメーカーがあったなんて、僕が1歳の時に生産中止だと、どうすればいいんだ!」と変態小学生は悩む事になったのです。その後23年も悩むとはこの時には思いませんでしたが・・・ 大盛屋ミクロペットという不思議な語感のミニカーブランドは、国産ミニカーマニアの間では最も珍重されているブランドなのです。(おおもり屋ではなく、たいせい屋と読みます)アサヒ玩具のモデルペットが昭和34年の10月に国産ミニカー第1号の観音クラウンを発売してから遅れること1年半、大盛屋という東京は蔵前にあった玩具メーカーが国産第2号ブランドとしてミニカーの発売に踏み切ったのです。 そのシリーズNo,1がデメキンのスバル360で昭和36年4月に¥150の定価で発売されました。ミニカーというのは当時としては他の玩具に比べ莫大な開発費が掛かるので商品化するにはかなりの苦労があったそうですが2代目の社長自らがマニアだった事もあり発売に踏み切りましたが、「若社長の道楽」といわれ社内ではミニカーの開発&発売というのは不評だったようです。それでも昭和40年までの生産中止までの間に68種ものミニカーを世に送り出した功績は素晴らしい事だと思います。 しかしミクロペットのミニカーというのは製造コストが安いアンチモニーという強度の低い素材で作られていて、通常のダイキャストのミニカーのように強くなく、子供が遊んだりするとすぐに破損してしまうというオモチャのクセにデリケートなミニカーだったのです。 もともと弱小メーカーで生産量が少ないうえに耐久性も低いという悪い条件が全て重なり、ミクロペットのミニカーは現存率が異常に低く、まともな状態で残っている方がおかしいといった感じのレアモデルなのです。特に初期に発売されたスバルは70年代当時でも珍重されていて、小学生マニアごときのWildmanがいくら欲しいと思っても見つかるあてもありませんでした。 そうこうしているうちに、1979年には元町のミニカー専門店のサンセットさんでモデルペットのスバルは何とか入手する事が出来ました。箱はありませんでしたが箱のみを14年後に入手しました、お疲れさまでした。 そして問題のミクロペットの方は全く見つからず、時間ばかりが過ぎましたが存在を知ってから23年後の1998年ベイスターズ38年ぶりの優勝の年に目出たく変態の手元にやってきました(入手経路は申し訳ありませんが、直接会った方のみにお話しする事になっております)画像に写っている左側メタブルーのモデルが幻の大盛屋ミクロペットのデメキンです。並んでいる画像の右のモデルがモデルペットです。 ミクロペットはスバル独特の丸みを上手く表現していますが、モデルペットは全体が四角くなってしまっているのが、少し実車のイメージと違っています。誰がどう見てもミクロペットの勝ちですよね・・・・といっても国産ミニカー初期モデルとしてどちらも貫録十分です。 現代のミニカーと比べれば実車同様、クオリティーでは比較にもなりませんが、製作者の熱い思いが伝わるのはやっぱり旧いモデルですね。コンピューターのない時代に職人さんが必死に型を作っていた時代の芸術品でございます。当時のモデルペットの広告には「ノミ一本の芸術」というコピーがあります、なんて素晴らしいのでしょう!! オヤジの乗っていたデメキンスバルのミニカーを求めて23年もの月日を費やした変態でしたが、今後この芸術品を後世に伝えて行く使命があります。大盛屋ミクロペットのミニカーをお持ちの同士はぜひとも大切にしてあげて下さい。 ちなみに「ミクロペットのスバルが手に入ったらコレクションをやめる!」と豪語していたどこかの変態ですが未だその件については実践出来ておりません・・・・ 幻のミニカーブランド大盛屋ミクロペットは昭和36年4月にシリーズ1作目のスバル360を発売してから約5年後の昭和40年12月に68作目となる最終モデルのいすゞベレットGTを最後にシリーズ生産中止となり、その後大盛屋はひっそりと倒産しました。この頃は出来の良い外国製ミニカーもたくさん日本に入ってきていて、ドン・キホーテのようなミクロペットでは太刀打ち出来なかったのでしょう・・・・ 現在では資料も少なく謎だらけの大盛屋ミクロペットですが国産黎明期のミニカーとして伝説となり、コレクター魂を揺さぶるブランドになっています。

おやじのスバルは幻のデメキンだった!

「長すぎてこれはブログじゃない!いいかげんにしろ!!」とか「長くて楽しいですね!もっと長くしてください!!!」とか賛否両論たくさんの方のご意見を頂いたこのWildman’s Blogも気が付けば2月で一周年を迎えて、今回でちょうど50回目のアップとなりました。 この間にたくさんの同士がいる事が判明し、私の生き方は間違っていなかったという感じになりました。やはり考えている事は皆同じ、変態というのは特種な生きものではなくなって来ていると痛感する今日この頃です・・・ という事で記念すべき50回目のお話はウチのおやじのFirst Carだったスバル360について語らさせて頂きます(Wildmanのスバルではありません) 1964年(昭和39年)東京オリンピック開催&東海道新幹線開通というおめでたい年に生まれたWildmanでしたが(本当はあと10年早く生まれたかったのですが)この時点で我が家にはまだマイカーはありませんでした。というか、まだマイカーを一般庶民が所有するというのは結構難しい時代でして、ご近所でもほんの数軒の家に軽自動車か仕事用のトラックがあったくらいだそうです。 ウチのおやじははっきりいってクルマにはほとんど興味がなく、免許も当時自動二輪しか持っていなくて、今乗っていれば変態の資格十分の三菱シルバーピジョンというスクーターを仕事で転がしていたくらいで、自家用車を持つという観念はほとんどなかったようです。しかし、Wildman 実家は駅まで歩くには結構距離があり、Wildmanが誕生した事により移動がとっても面倒臭くなり、仕方なくクルマを購入する計画が持ち上がったそうです。 といってもバイクの免許しか持っていなく、普通免許を取るのも嫌だったので、当時は何とバイクの免許でも乗れた360cc以下の軽自動車にターゲットを絞りました。国民車構想で生まれた小さな軽自動車たちは一般庶民の夢として昭和30年代末期の時点ではかなり普及していましたが、いきなり新車を購入するというのはかなりハードルが高く、「とりあえず最初は中古車にしましょう」とおやじは家から徒歩40秒の所にあった小さな町工場兼自動車販売業を営んでいたM自動車さんに相談に行きました。 そこではダイハツやスバルの新車&中古車を扱っていましたが、何しろ運転にも自信がなかったので「動けばいいや」という感覚で一番安い値段で店頭に並んでいたスバル360の中古車に目を付けました。価格は5万円、もちろんこの頃は軽自動車には車検制度もなかった夢のような時代だったのですぐに乗って帰れたそうです。 すぐに乗って帰ったのはいいのですが、バイクの免許で乗っているので初めての自動車はとっても運転が難しく、練習がてら街中に繰り出したら狭い道に入りこんでしまって行方不明となり遭難寸前でやっと家にたどり着いたそうです。 これがおそらく1965年くらいの事なのですが「はっきりした年はもう忘れた」との事で確証が取れないのですが、何でも昔の事が知りたいWildmanには辛いところです。このスバルの記憶はうっすらとしか覚えていないWildmanですが、リアシートに座ると後ろからエンジン音が聞こえた事はかすかに覚えているのと、色がブルーだった事が唯一の思い出です。 しかし変態としてはこのスバルの事が知りたいと思っても、おやじにとってはただの道具だったのであいまいな記憶しか無く、「とにかく中古車で調子が悪かったぞ!そうだ混合給油だった」ということしか覚えていません。残っている写真も少ないのであとはWildmanによる検証しかありません。 アルバムに残された小さな写真は実家前で昭和41年5月5日に撮影されたスバル君の姿です。鯉のぼりも高らかに上がり、まさに三丁目の夕日の世界ですね…我が家のFirst Carスバルは驚くなかれスバルマニア垂涎の存在、スバル360第一世代の通称「デメキン」と呼ばれるウルトラレア車だったのです。 欲しい・・・・・おやじの話によると「ミッションは縦H式だった」というのが唯一の確かな情報で(60年後期まで横H式)あとは写真から判断するとフロント一本バンパーなので、当然マイナーチェンジ後のモデルで(最初期型はセパレートバンパー)エンジンは16psから18psにパワーアップされているはずで、フロント部に”SUBARU”の小さな文字のエンブレムも見当たらないのでこのあたりから大まかな推測をすると1961年前期型~62年後期型(昭和37年8月生産分まで)と思われます。という事は我が家に来た頃で4~5年落ちくらいのクルマだったのですが、それにしてはよく壊れたそうです。 62年のデラックスモデルからヘッドライトがデメキンタイプではなく、おなじみの3ビームタイプになり、現存するスバルはほとんどがこのタイプのヘッドライトのモデルです。Wildmanが小学生の頃の70年代でもデメキンのスバルにはほとんど遭遇しませんでした。偶然見た時はランボルギーニミウラよりもトヨタ2000GTよりも興奮したものです。結局このスバルにはほんの2~3年くらいしか乗らなかったそうですが、そのあとも懲りずにスバル360の中古車を買ったそうですが、これも混合給油のタイプでしたが、デメキンではなく64年くらいの型だったようです。 スバル360は結局この2台を乗り継いだのみで、次は違うクルマになったのですが昔の人はよくこんな小さなクルマに家族を乗せて、ドライブや買い物にいったもんだといまさらながら感心してしまいます。デメキンのスバルは完璧な設計理念のもとに作られ、シンプルなデザインも素晴らしく、その性能も当時としてはずば抜けていて、てんとう虫の愛称と共に永遠に語り継がれて行く、国産車の中では名車中の名車だと変態は太鼓判を押します。(ビート50のような迷車ではありません) 写真の実家もとっくの昔に建て替えられ、このスバル君なんて昭和44年頃にはスクラップになった事でしょう・・・・来年には免許を返納すると豪語しているおやじですが、スバルの写真を見せて「もう一度乗りたい!」などと言ってくれればいいのですが、残念ながらそんな変態ではないようです。

20年の時を超えてやって来た、Meet The Beat50!

超前衛的スーパースクーター、ビート50との笑劇の出会いから約20年、時代はすでに21世紀を迎え、2サイクルスクーターの生産中止の声も上がり始めていた頃でした。 環境問題による排ガス規制で小排気量ハイパワーの2サイクル原付&原付2種は苦境に立たされ、クリーンな4サイクルの低パワーエンジンへの移行を余儀なくされていました。悲しいですね・・・「ついに我がリード100も生産中止か・・・ボルグ様20年間有難うございました」と感慨に耽っていると、懐かしい80年代2サイクルハイパワースクーターの事を思い出してしまい、思考回路はどんどん逆行し、ビート50の鼓動が聞こえて来てしまいました。「ビートか、あいつは本当に欲しかったけどついに乗る事もなかったなあ・・・今乗れば真の変態として世の中に認められそうだなぁ・・・」と思うと昔の本やカタログを引っ張り出してはいかにビートが変だったかを再認識しておりました。 インターネットを検索してもビートといえば軽オープンのビートばかり出てきます。しかし約3年前のある日の事でした、全く知らないバイク屋さんのHP在庫車両にヘンテコな物体の在庫情報を見つけてしまったのです。 「これってビートに見えるんだけど・・・まさか売っているの????し、新車だって!!!ウソでしょ、本当にビートなの!!!!」と興奮状態になる変態は失神しそうになりました。お店の住所を見ると横浜のちょいはずれの方になっています。「そんなバカな!!ありえない!今時ビートだなんて!でも見てみたい」と思っていると、いまだに自らが変態の一人だと認めていない某Truck Trends編集長のO氏から絶好のタイミングで素敵でHotな情報がもたらされたのです。 「たぶんそれその物と思われるビートがどこそこの十字路にあるバイク屋に並んでいた!」 とご自分もとっても嬉しそうに熱く語ってくれたのです。まさに変態としか思えません。そしてついに20年の時を超えてそいつと対面する時がやって来たのです、Meet The Beat! そこはWildman自宅よりクルマで約1時間弱の寂しい山の中の交差点、解体屋さんかと思ったそのお店にたどり着く変態が一人・・・・ 「あのー、ビート50っていう旧い原付があると聞いて来たんですけど」とお店のおじさんに言うと「あ、ビートね、そこのはじっこに置いてあるよ」と解体車か販売車だかよくわからない原付たちの列の端の方に真紅のスーパースクーターはポツンと鎮座しておりました。 「お、おまえこんな所にいたのか・・・・」と絶句のWildman、1983年の東京モーターショーで笑劇の出会いをしてからすでに20数年、最後に走る姿を目撃してからも約10年の月日が流れ去り、心肺停止状態だと思っていたホンダの鼓動はついに変態の前にその姿をさらけ出したのです。「何てこった、これは夢か幻か、それともついにオレは気が狂ったのか」とビートの前で震えて自分が心肺停止になりそうになったのです。 オリジナルのビートレッド(純正カラー)のカウルをまとったボディは特に欠品もなく程度良好、オドメーターに目をやると走行距離は何と4キロ・・・・「お、おじさんこれってホントーに新車なの!!」と聞くと「そうだよ、未登録の車輌だよ、ずーっと倉庫に眠ってたみたい」と信じがたいコメントを頂きました。そうなんです、このビートは20数年間もの長きに渡り、1度も登録されることなく眠りこけていたタイムスリップ車両だったのです。いつも自分自身がタイムスリップしているWildmanにとって奇跡的な出会いが訪れました。 21世紀になって突然現れた新車のビート50、もう我が家に迎え入れる事は決定的でした。買わない理由なんてこれっぽっちもありません。気になるお値段は1983年コイツが新車時の全国標準現金価格\159,000(当時は消費税なし)のピッタリ半額でよいとの事でした!! 「ウオオオオ~」と叫んだ次の瞬間、手付金を払っていました。 「動こうが動かまいがそんな小さな事はどうでもいい、ビートは存在自体に意味があるのだ!」と言ってはみたものの、やっぱり動く方がいいや・・・と思いおじさんに「ところでこれって動くんですか?」と聞いてみると「たぶん動くよ」と怪しいお答が返ってきました。突然バッテリーをつなげてセルを回してくれましたが「プヨプヨプヨ」とセルの音がするだけでエンジンは一向にかかりません。 何とビートには最初からキックが付いていないのです!「世界初のメンテナンスフリーバッテリー搭載の自信の表れか」と思いましたが、ただ単に水冷化による水廻りの配置関係でキックが付かなかっただけのようでした・・・ 元気なく回るセルに見切りをつけ、突然おじさんはキャブをばらし始めたのです。そして待つこと数十分、もう一度バッテリーをつなぐと「プイーン」と水冷2ストローク、7.2psのホンダの鼓動が聞こえたのです。「やった、やった、やった」と飛び上がって喜ぶ変態は一週間後の納車を首を長~くして待っていたのです。その間にひっさしぶりに自分で原付のナンバープレートを取りに区役所なんかに行ってしまい、指折り数えてその日を待ちました。 20数年間思い焦がれたホンダビート50。ついにオーナーとなる日がやって来て原付の前で興奮する40歳の変態。シェルビーだろうが原付だろうが嬉しいものは嬉しい・・・・ お店に到着し、ナンバープレートを付けてまたがってみると「なんてちっちゃいのコレ!」という感じでした。ビートは水冷ですけどとってもちっちゃくて軽いんです(乾燥重量60kg) 「それでは生涯大切にさせて頂きます」とお店のおじさんに分かれを告げ、デッドストック状態、新車のビート50は20数年の時を超えてプイ~ンと走り出したのです。 スピード、タコ、水温計、燃料計の原付離れした凄まじい4連メーターはすべて動き、Wildmanを感動させました。「新車だからな、一応しばらくは慣らし運転しなくちゃな」と小心物はエンジン回転数を抑えて走りました。 ついにやって来た20年落ちの新車ビート50(推定1984年型)高校生の時に初めて原付を運転した時の感動が甦ります。自宅前で真っ赤な原付を眺めウットリする40歳・・・・近所の噂を独り占めでした。それでは新車インプレッションを始めます。ビートは原付のくせにキックがないのでセルスターターのみの始動になります。なので寒い季節はとっても危険な乗り物です。 プインとエンジンが掛ったら水温計の針がぴくりと動くまで待ちます(小心者なので)後はオートマチック(Vマチック)なのでアクセルをひねればプイ~ンと走りだします。水冷の為でしょうか、エンジン音は意外と静かですが走ってすぐ気付くのは低速トルクが細いという事です(気のせいかもしれません) しかしここからがビートの本領発揮です。プイ~ンと走りだしてから車速がのり、タコメーターの針が5500rpmを指した頃「今だー!」の掛け声とともに左ステップ後方に配置されたペダルを踏み下ろすと謎のメカニズムV-TACSが作動し、2段切り替え方式の排気系はサブチャンバーのバルブが閉じて高回転型にセットアップ!! タコメーターの針は一気に11000rpm!!!!まで跳ね上がりそのサウンドは「プイ~ン」から「パイーン」とハイパワー2ストロークの高音に変わります。 そしてさらに面白いのはV-TACS作動の瞬間にタコメーター内に描かれた出力曲線の所にセットされた「バリアブルパワーインジケーター」なるデジタル風?の赤色ランプがピピピピッっと点滅し「うおー、今がフルパワーだ~!」と気分を盛り上げてくれます。まさに80年代のゲームセンター感覚であります、なんて素敵なのでしょう!!スーパースクーターホンダビート50。しかしですね気分はとっても盛り上がるのですが実際のスピードはというとあんまり出ていないような感じがします・・・まあこれはリード100という絶対的に排気量もパワーも違うバイクに乗りなれているせいもあるので仕方がありませんね。 ビートの正しい乗り方というのはですね、80年代に無免許で?RZV500Rを借りて乗りまわして、中免ライダー諸君に見せびらかした時と同じように、21世紀の若者に見せびらかすことです。 ビートに乗ってコンビニやバイク屋行き、高校生軍団に見せつけると「うおー、なんだコレは、こんなの初めて!」とみんな驚いてくれます。「ふっふふ、これは君たちが生まれる前のバイクだぜ、新車だけど」とセリフを残し走り去る変態が一人・・・こんな感じで乗れば良いのです。 ノンフィクションのこのお話、楽しんでいただけたでしょうか?奇跡の新車ホンダビート50(推定1984年型)その後も自分のビート以外とは1度も遭遇しておりません。どこかですれ違って一緒に走ればツービートだ!といつも思っておりますが、走っているトヨタ2000GTを見るよりも走っているビートに出会う方がはるかに難しいかもしれません・・・・横浜市内で真紅のビートに出会ったら必ず声を掛けて下さい、99%の確率でそれはWildmanのはずです。 2度と作られることのない80年代を代表する迷車中の迷車、ハイパワー水冷2ストロークスーパースクーター「ホンダビート50」こいつの鼓動を後世に伝えるため、ビートの伝道師Wildmanは永久保存を決めております。(あんまり素晴らしいので、そのうち部屋に入れるかも知れません・・)

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それは25年前、ホンダの鼓動が聞こえた

前回までのお話で四半世紀前の1983年東京モーターショーに出撃していたWildmanは、たくさんの新型オートバイに囲まれて、あーでもないこーでもないと友人のN君と勝手な論評を繰り返していました。 「カタナがリトラクタブルライトになりやがったぞ! こっちにはホンダのCX650ターボがあるぞ! RZV500Rは一体誰が買うんだ!」と叫びながら会場内をグルグルと廻っておりました。そして笑劇のいや衝撃の出会いはホンダのブースの所でやって来たのです、しかも原付の・・・・・大型バイクを期待していた皆様、それではまだまだ変態にはなれません。タクトやスペイシー、そしてマイナーチェンジした我がリード号が並ぶブースの一番真正面に見たこともない変態ちっくな乗り物が鎮座しておりました。「こっ、これは何???何なんだこのデザインは!!見たことがない!!」と叫ぶWildman、友人のN君も「これってコンセプトモデル?本当に売るのかよ!」と二人はコイツの前で呆然としました。まるで21世紀の世界からやってきたバイクに思えました。 「みっ、見ろ水冷だラジエーターが付いてるぞ!タコメーターも水温計も付いとる!ヘッドライトが2つも付いてるぞ、しかもハロゲンだ!ブレーキにはエアスクープも付いとる!足元のあのペダルは何なんだ!」と全てが衝撃的でした。しかもセンスのかけらもないカラーリングを身にまとっていました。 2人を興奮させたそいつの名前は「ホンダビート50」ホンダの鼓動・・・・でございます。画像がこの時のショーモデルのスペシャルカラーリングで、残念ながらこのカラーでは発売されませんでした。ビートと聞いてあの軽オープンスポーツカーのビートだと思った方がいらっしゃると思いますが、ホンダはそれよりずっと前に違うビートを作っていたのです。ホンダは名前の使い回しが大好きなようで、元祖スリーター(3輪スク-ター)のストリームという名前もなぜか今ではミニバンの名前として平気で使っていますね。 ビートはあらゆる意味で凄いスクーターでした。何が凄いかって言いますとデザインは当然としてもエンジンは原付スクーター世界初の水冷2ストロークエンジンはクラス最強の7.2馬力を絞り出し、デュアルハロゲンヘッドライトも世界初、メンテナンスフリーバッテリーに至っては2輪車で世界初!という栄誉を担った世界初メカニズムがいっぱいのバイク、それがホンダビート50だったのです。「世界初がいっぱいだ、まるでマッハIIIが世界最速になった時みたいだ・・」とまたもやWildman特有の勝手な思い込みが始まったのです。 そして一番気になったのは足元のペダルでございます。いったい何だと思います?このペダルは、ブレーキではありませんよ。すぐに分かったあなたは変態の資格十分です。このペダルはV-TACSと名付けられたまるでアニメの世界にでも出てきそうなメカなのです。ヴァリアブル・トルク・アンプリフィケーション・チャンバー・システムという悪者をやっつけるような名前のシステムは現在でいう所のVTECのような感じでしょうか(大げさですが)日本語で言いますと「可変トルク増幅排気システム」とホンダさんが言っておりますが、どういうものかと言いますと、ペダルを踏まない状態での走行中は排気バルブが開いていてサブチャンバーと主排気系が低回転時にマッチした排気脈動になっていますが、一定の回転数になるとこの流れでは頭打ちになってしまいます。そこでこのペダルを踏むとサブチャンバーは閉ざされ高回転型にセットされた主排気系が脈動効果を発揮しフルパワー7,2馬力を絞り出すのです。何を言っているのかわからなくなって来ましたが、簡単に言いますとエンジンが5500回転の時にペダルを踏むとV-TACSが作動し、クルマで言うとターボチャージャーのフルブースと状態になり真のパフォーマンスを発揮するというわけです。どうですこの意味不明のメカニズム、変態心をくすぐるには十分でした。モーターショーからフラフラと帰ってきましたがカワサキニンジャよりもビートの方が印象深く、暫くの間はビートにうなされていました。そしてモーターショー直後の83年12月にビートは発売されたのです。 しかしWildmanには普段の足としてボルグ様のリード50がありまして、こちらも手放すわけには行かないといった信念があり、ビートは欲しいがカエル君(KH250)もあるしこれ以上の増車は不可能といった状況でした。しかもビートの値段ときたらあまりのハイメカ二ズムとなった為、当時の原付スクーターとは思えない\159,000という破格のプライスタグを引っ下げておりました。原付なんて\10万もあれば立派なものが買えた時代です。性能云々よりもあまりの変態性と高価格が災いし、ビートは立派な不人気車となって80年代を駆け抜けたのです(というより転んだのです)あっという間に生産中止となり人々の記憶からビートは消えてしまって、気が付けば幻のスクーターとなり、ビートといえばあのムーンアイズエリア-1カリスマ店長も乗っていた軽オープンカーといったイメージしか無くなってしまいました。しかしWildmanの心の隅にはいつもビートの鼓動が聞こえていました。1995年JR鶴見駅付近でオッサンが乗る黒のビートに感動しましたが、それが走っているビートを見た最後になっていました。 時は流れて本当に21世紀になってしまい、ビートと出会った衝撃のモーターショーから20年以上の月日が流れておりました。その間Wildmanは歴代リードを4台乗り継ぎ50ccから90ccとなりリード100に到達していました。さすがにこの頃ではビートなんて笑い話にもならなくなっていてWildmanとしてもビートの話をしても通じる相手がいなくなっていました。しかしインターネットより信じがたい情報を変態はキャッチしてしまったのです。「ビートの新車がある、未登録だ、しかも横浜に」とだれも信じてくれないような話ですが、それは紛れもない真実でした・・・・・ この続きは次回のお楽しみに(してくれる人がいるといいのですが・・・)