Wildman 名前の由来

1990年、Pinstriperとなって1年が経った頃、初めてアメリカを訪れユタ州のEd Rothの元へ行く事になりました。1989年の日本の3rd. Annual Mooneyes Street Car NationalsでRoth本人に会ってそのパフォーマンスをライブで見て感動し、Pro Pinstriperになる事を決意しましたが、今度はアメリカで再会し新たにRothよりPinstripeについて学びたく思っていました。LAXにてRothと落ち合い、クルマで遠くユタ州の彼の家に向かう訳ですが、狭い室内の彼の愛車Mazda Pick upの助手席に乗ろうとすると、「何、やってんだHiroが運転していってくれよ」ととんでもない一言が!初めて来たアメリカで初めての運転でそんな距離を走らされるとは思ってもいなかったので正直焦りましたが、フラフラとFreewayを走り、朝だか夜だか分らない時間に何とかユタのRoth宅に到着しました。するとそれまで殆ど眠っていたRothが言いました、「いや〜初めてのアメリカでよくこんな所まで運転してきたな!おまえをWildman と呼ぼう!」の一言でRothより"Wildman石井"という名前を命名していただきました。

Here is a story for people who are not familiar about why Pinstriper Mr. Ishii is called "Wildman" Ishii. He was named "Wildman" by ED "Big Daddy" Roth. It was when Mr. Ishii traveled to Utah to be trained as Pinstriper by Ed "Big Daddy" Roth at his home. Ed "Big Daddy" Roth was only expecting Mr.Ishii to drive from airport in Utah but when Ed Roth found out that Mr. Ishii actually drove all the way from LAX airport in California, Ed "Big Daddy" Roth had to say "Oh! You are Wildman!. Let's make your name "Wildman" So his name "Wildman" has been called since then. Good story isn't it.

WILDMAN の作品

ロカビリーもいいもんだ!ブラックキャッツの幻

猛烈に暑かった夏も終わり、そろそろPinstripeには絶好の季節がやってまいりました。やっぱり湿度が低くて、25度前後の気温が一番作業しやすいですよね。といっても最近は異常気象で、突然の豪雨があったりピーカンになったりと、天気予報が大好きなスーパー雨男Wildmanも困っております。 困った天気といえば、ついこの前の1982年の夏も変でしたよね。最近なので当然皆さんも覚えていると思いますが、なかなか梅雨が明けなくて、明けたと思ったら台風攻撃でとっても冷夏なSummer Timeでございました。 絶好調のホンダ・リード50で走る時もカッパばかり着ていたのを覚えております。そしてリードで自宅より30秒走ったところで財布を落とし、7分後には交番に届けられていたことも思い出しました。拾ってくれた八百屋さんは今も健在であります、その節はありがとうございました。 82年、この年もやっぱりKISSは来日せず、もうこのまま一生日本には来ないのではないかと、とっても不安な日々を送っておりました。そんな中、高校のクラスメートのN君が(そういえば彼もKISS好きでした)「これ聴いたことある?」とTDKのカセットテープを差し出しました。「ロカビリーなんだけどさ、結構カッコいいんだぜ、聴いてみなよ」と無理やりカセットテープの貸し出しを受けたのです。テープには彼の字で”Black Cats”と書かれていました。「ブラックキャッツ?何だっけ?名前は聞いたことあるような、ないような・・・」 家に帰って雑誌で調べてみると「あ、あれか、思い出した!聴いたことないけど」とブラックキャッツが何だったかうっすらと思い出しました。 70年代に原宿にオープンした「クリームソーダ」というロカビリー系のファッションをメインとしたショップが修学旅行生のお土産の対象となってバカ当たりしてビッグビジネスとなりました。猛烈に甘い香りのポマードやクシ、サイフ、奇抜な色使いのフィフティーズなデザインのシャツやパンツを求めて原宿に少年達が集まりクリームソーダは一つの時代を作りました。その店の店員が集まって1981年にロカビリーバンドを結成したのがブラックキャッツでありました。今で言うとカリスマ店員のはしりみたいな物なのでしょうな。ウチには保土ヶ谷在住のカリスマ店長がいますが・・・・・・ 早速テープを聴いてみると、どう聴いてみてもアマチュア・バンドの域を出てなく「こりゃ学園祭レベルだ、いやもっとうまい高校生もいるぞ!」と妙な興奮を憶えました。まだ練習中のような演奏、どっかで聴いたことあるようなロカビリーのメロディー等々凄まじいものでしたが、何か印象に残るのです。 それは演奏云々ではなく、ボーカルの甘く切ない歌声がとっても心地良く感じられたのです。「ウーム、このボーカルは素晴らしい、素人っぽいけどそこがたまらん、ロッケンロールだぜ」とブラックキャッツがお気に入りに登録されたのです。 そしてさっそくLPレコードを購入しなければならなくなり、ブラックキャッツのファーストアルバム“Cream Soda Presents”が我が家にやってきました。かなり有名なジャケットのデザインなので、当ブログの読者様なら覚えていると思います。 6人のメンバーで構成されていたブラックキャッツは皆さんバリバリのリーゼントで決めていましたが、もちろんフィフティーズを意識していたので「横浜銀蠅」とはちょっと違うルックスでした。何といってもボーカルの高田誠一さんのルックスがその歌声とともに抜きんでておりましたので、まさにカリスマ店員という感じで人気物でございました。本当にカッコいい人でありました(Wildmanホモ疑惑ではありません) 「こうなったらカリスマに会いに行くしかないな、原宿はクリームソーダにGo!だ」とカセットテープを貸してくれたクラスメートのN君と早々に学校を自主早退し、横浜から京浜急行、東横線、国鉄と乗り継いで、原宿に到着となりました。まだ「裏原宿」なんて言葉もなかった頃のことです。以前日曜日に原宿に出撃したときは歩行者天国で「竹の子族」の皆様が巨大なカセットデッキを抱えて「E気持ち」になって不思議な踊りを踊っていたのを思い出しましたが、この頃は「ローラー族」に変わっていたようです。そして伝説のお店「クリームソーダ」や系列の「ガレッジ・パラダイス東京」にたどり着いた二人組は制服のままお店の中を巡回しました。 80年代初頭テニスにおいてボルグ様にあこがれ、ポパイに影響されてNikeを履きUCLAなライフスタイルを目指していたWildman少年にとってクリームソーダのファッションは未知との遭遇のようなものでした。 「何という色使い、そしてこのデザイン、これはフィフティーズなんかじゃなくニューウェーブだぜ」とクリームソーダの感覚にびっくり仰天という感じでした。とても着こなせるような代物ではないのでステッカーやバッジを物色していると店員さんがこちらに近づいて来ます。「どこから来たの、修学旅行?」と声を掛けて来たのは何と勝手にカリスマ店員に認定していたブラックキャッツはリードボーカルの高田誠一様でありました。「アワワワワ、私は修学旅行生ではなく横浜より学校帰りにやってまいりました」と緊張して答える創世期の変態でありました。いろいろと商品の説明をしてくださりましたが、お金も着こなす自信もなかったのでステッカーとTシャツ一枚を購入し、サービスでメモ帳を一冊戴き、N君と緊張したまま家路についたのでした。ついこの前のことですが・・・・・これがその時(26年前)にステッカーを入れてもらった紙袋になります。 その後ブラックキャッツは次々とアルバムを発表し、明らかに演奏力は進歩しているのが一作ごとに分かるようになりました。当時人気のGo Go’sの前座としてですがUS Tourまで敢行したのもこの頃で、その後写真集なんかも出て、ブラックキャッツの人気は一部の世界でですがピークに達しました。 85年には何とコカ・コーラのTVCMにも起用され高田誠一さんが俳優さながらの色男ぶりを発揮しました。Coke is it!であります。メンバーチェンジや脱退等もあって、86年にはブラックキャッツ解散となり一つの時代は終わりを告げました。 その後94年に高田さんともう一人の人気メンバーだった覚田さんの二人だけで再結成し、アルバムを発表していましたが、それも99年に解散して高田さんは故郷の長崎に戻られました。 その後数年がたち2004年になってインターネットで高田さんが白血病で44年の生涯をとじた事を知り驚いてしまいました・・・・・・合掌。 もはや再々結成の望みもなくなり幻となったブラックキャッツですが、伝説のロカビリーバンド「ストレイキャッツ」の完璧な演奏力と比べてしまうと、手も足も出ません。 しかし高田さんのカリスマ性やあの時代にあの形で活動したことは意義があったと思います。ブラックキャッツはCD化されているので簡単にあの時代にタイムスリップ出来ますよ。 TOO FAST TO LIVE TOO YOUNG TO DIE・・・・・であります。

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迷いこんだ孤高の悪役スーパーカー

やっぱりですね、昔のスーパーカーはカッコいいんですよ。70年代のランボルギーニを中心としたウェッジ・シェイプのデザインは今見ても純粋にカッコいいと思っております。 あのスーパーカーブームを体験した世代は決して車離れという社会現象に惑わされることはないと信じております。 あの頃のスーパーカーなんてクルマ自体の作りはメチャクチャ、新車の頃からまともに動きそうもなく、30年たった今ではレストアというよりも作り直し&改善といったレベルで楽しむしかないようです。 でもそこはやっぱりスーパーカー、動かなくてもオブジェとして眺めているだけでも人生が変わりそうなので、ランボルギーニ・ウラッコあたりの不動車をタダで頂ければ終生オブジェとして大事にしますので宜しくお願い致します・・・・・ あのブームのころ、キングといえばカウンタックでしたね。ライバルが365BBとすれば脇役にポルシェ930ターボや、マセラティ・ボーラが並び、ちょっと古くても準主役を演じれたミウラも当時の人気物でしたし、神のような存在のイオタもありました。ランチア・ストラトスやロータス・ヨーロッパ、フェラーリ308なんかも12気筒スーパーカーに比べ格下とはいえ、ブーム時はアイドル並みの扱いでございました。 そんな中で1台、名前も通っていて性能もそこそこ、カッコもリトラクタブルのヘッドライトをはじめ完全にスーパーカーしているのにちょっと異色の存在だったヤツがいました。 イケメンのカウンタックに対し、不良のA君のような存在のスーパーカーは「デ・トマソ・パンテーラ」そう、パンテーラでございます。*注:シャレード・デ・トマソではありません。 漫画「サーキットの狼」の中でも暴走族「極道連」のスポンサーである通称「坊ちゃん」や悪の限りを尽くす「四国の獅子」の愛車として登場し、子供達に「あれは悪者のクルマと」というイメージがすり込められられ、フェラーリやランボら真のイタリアン・スーパーカー・オーナー達からは「あれはエンジンがアメリカ製の偽物スーパーカー」というレッテルを貼られていました。 しかし憎まれっ子、世にはばかるといった感じで、パンテーラは何と20年以上も製造された驚異の長寿スーパーカーとなりました。 数奇な運命を経てイタリアに渡ったアルゼンチン人のアレッサンドロ・デ・トマソは大富豪の娘と結婚し、巨万の富を得てレーシングカーの製造をはじめ、遂にはロードカーの量産にまで手を伸ばしました。 大フォードと組んでの一大プロジェクトはイタリア製のボディ&シャーシに安価で大パワーなアメリカンV8をZFミッションと組み合わせ、ミッドに搭載してフォード・ディーラーで売りましょう!という壮大なプランでした。 出来あがった大量生産スーパーカー「パンテーラ」は当初トラブル続出で、途中でフォードはさじを投げてしまい、結局デ・トマソが改良を続けて安定した人気を得てロングランなスーパーカーとなりました。 いい加減なクルマに思われそうなパンテーラですが、基本設計はランボルギーニから引き抜いたミウラの設計者であるダラーラが努め、ボディはイタリアのギアのデザインによるもので実際スーパーカーとしての基本は結構しっかりできていた車なのです。ただアメリカンV8という心臓が、スーパーカーファンには引っ掛かるところだったのでしょう。 実際には搭載されたフォード351クリーブランド・ユニットはかなりの高スペックを発揮していて、まともに動かないイタリア製12気筒なんかよりもよっぽど強烈なスピードを誇ったそうです。 しかし21世紀となった現在ではパンテーラはビンテージ・スーパーカーとしての地位を確立し、昔みたいにエアロ・パーツで着飾っただけの見てくれ重視仕様よりも、オリジナルな状態にレストアするパターンの方が主流になっています。 なんたって心臓はフォードV8ですからチューニング・パーツなんかいくらでもあり、現在の技術であればパワーはいくらでも稼げるのがパンテーラのいいところであります。 パンテーラを初めて間近で見たのはついこの前の1977年のことでした。この写真は、大磯ロングビーチで開催された77年のスーパーカーショーに友人の石川君と国鉄に乗り出撃したときのものでして、品川ナンバーのパンテーラGTSになります。後ろにはとっても70年代小学生ファッションのちびっこたちが写っております。 ついでにその隣にはこの真っ赤なフェラーリ365GT4ベルリネッタ・ボクサーが飾られておりました。「真っ赤なフェラーリ」なんて歌もありましたっけ・・・・(by:切替徹) そしてあまりにも最近の話で申し訳ないのですが、今年の22nd Mooneyes Street Car Nationalsのスワップミート・ブースに真紅のパンテーラがあったのを見た方はおりますでしょうか? 2台並んでいたうちの1台になるのですが、ほとんどの方々は「普通の綺麗なパンテーラ」と思って見過ごしてしまったと思います。そんなアナタは後悔することしきりでございます。 パンテーラは70年代にレースにも出場していました。当時のグループ4レギュレーションに合わせたレーシング・パンテーラはエンジンをアメリカのバッドムーアやガルツランドにより隅々までチューニングされ、アメ車ファンにはおなじみのホーリーやクレーン、アライアス等のホット・ロッドなパーツで武装し、更にドライサンプ化されて500hpの出力を誇る完全なレーシング・スペックとなりました。 エンジン以外では、ブレーキがロッキード製になり、室内はバケット・シートやロール・ゲージが組まれ、外観はぶっといマグホイールに巨大なFRPのオーバーフェンダーが付き、パースペックス製のサイド・ウィンドウとともにまさに70年代のレーシングカーの匂いプンプンといった雰囲気になっています。 このレーシング・スペックの特別な車が「パンテーラ・グループ4」としてたったの8台だけ生産されました。純血種の豹は8頭しかいないわけであります。そしてこのうちの最後の1台はついこの前である1972年12月22日にデリバリーされました。 そしてその後この最終車輌は走る舞台がほとんどないはずの日本にやって来てしまい、ずっと日本に生息していたのです。昔からのファンなら知っていると思いますが、当時のDrag Race等に出場したりしていたので走っている姿をずっと昔に見た事があるかもしれません・・・・この車こそ今年のSCNに現れた幻のパンテーラ・グループ4なのであります!変態は興奮してしまいカタログサイン会をやりつつ、パンテーラの所に出張にも行っていました。 ただのパンテーラだと思っていた皆様はこの写真をご覧下さい。グループ4カー専用デザインのオーバーフェンダーやパースペックス製のウィンドウが本物のオーラを漂わせていますよね。あーあ、もったいない、このクルマのこと誰も見ていなかったんだよな・・・・・・変態は寂しいです。 寂しさを紛らわすために変態はミニカーで楽しみます。70年代当時物のフランスはノレブ社製のこのミニカーは何とパンテーラ・グループ4をモチーフとしていました。GTSではなくグループ4をモデル化したところに製作者の変態性が感じられる好モデルです。独特のオーバーフェンダーやサイドウィンドウが見事にグループ4しております。最高です。ブルーのはついこの前である小学生の時に買ってもらったもので、他の2台は21世紀になってから入手致しました。気が長いのです・・・・ 日本上陸後20年以上が経過し、静かに余生を送っていたグループ4ですが最近またもやエンジンに火が入りレーシングカーが公道に乱入してきたのです。その勢いでSCNにも現われたのですが、オーナー様はとても大切にされているので、今後も末長くこのクルマは世界で一番程度のいいパンテーラ グループ4として走り続けるでしょう。 Mooneyesのイベントにはどんな車が来るかわかりません。今週末のAll Odds Nationalsにもこうご期待であります。Wildmanブースでお会いしましょう!

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集まれ世界の創刊号、創刊号がいっぱいで壮観だぜ!

本がですね、お家でですね、あふれ返ってですね、もう手の付けようがなくなっている今日この頃なのですが、やっぱり捨てられないんですね、これが。 本なんてコレクションしているつもりではなかったのですが、変態道を極める為にはどうしても資料として取っておかなくてはならず、それが30年も続けば収集がつかなくなるのは当たり前ですよね、これが・・・・ 大事なページだけ切り抜いておけばよいのですが、本を切り刻むなんて恐ろしい行為は小心者には出来ず、積もり積もって一千冊の本の森と化した我が家は変態向けの図書館が出来そうな有様でございます。 ある日突然たった一ページが読みたくなることがありまして、レンタルのコンテナなんかに入れたらすぐに読めないのでヤッパリ本は手元に置いておくしかありませんね。今回は雑誌のお話になるのですが、手元に置いておく事によってすぐに引っ張り出せますのでやっぱり倉庫なんか借りず、本の森で生活していた方が良いのです。床が抜けたらその時に考えましょう。 という事で今週ご紹介するブツは雑誌の創刊号たちになります。やっぱり創刊号というのはどんな雑誌でもコレクティブルなものになる要素がございまして、もしあなたが揃って持っている雑誌を処分してしまうことがありましたら、せめて創刊号は手元に残しておきましょう。なんなら私がお引き取り致しますが・・・・・ 古い順に紹介して行きますが、まずはクルマ雑誌からという事で1962年(昭和37年)に創刊され、いまも続くおなじみのカー・グラフィック誌でございます。いつの時代もバイブルとしてカーマニアを洗脳し「アメ車はダメだ、ヨーロッパ車最高!」なんて素晴らしい持論を展開しておりました。 70年代にチャレンジャーやトランザムがデビューしたときなんか「こんな無駄車いらねえ!」くらいのことを言っていてアメ車好き少年としてはゾクゾクしておりました。これに反論するのが楽しかったのです。最近はトゲがなくフツーの本になってしまい、なんにも反論出来なくてつまらんです。もっといやみったらしい本を作って下さい。 創刊当初のカーグラは毎月1ブランドの自動車ブランドを取り上げるスタイルでこの創刊号ではメルセデス・ベンツが特集となっています。あまりにも有名な表紙は300SLで、記事もこのクルマを小林彰太郎御大がロードテストを行い、当時としては圧倒的なパフォーマンスを披露しております。 今年出た創刊45周年記念のカーグラの回想録みたいな本「CG45+」の中で小林御大が「当時300SLなんか持っているのは力道山くらいしかいなくまさか力道山にテストのためにクルマを貸せというわけにもいかなかった」という素晴らしいコメントを残してくれています。先生はやっぱり偉大です。 結局この表紙の車はディーラーのウェスタン自動車を通じてナンバーからもわかるようにアメリカの兵隊さんのクルマを勝手に借りてテストしてしまったという犯罪に近い行為を御大が45年ぶりにカミングアウトしています。暴露本と化したカーグラフィックでございます、こうでなくっちゃ!! そして次の本はついこの前としか思えない東京オリンピックの年である1964年(昭和39年)創刊の平凡パンチです。私の生まれた年でございます。自分の知らない時代の文化、ここから勉強しなければなりません。平凡パンチは若者向けの情報誌としてファッション、車、スポーツ等を織り交ぜて編集されたいわばポパイの前身みたいな本ですね。表紙のアイビーカットの青年たちのイラストが60年代してて泣かせます。 創刊記念では「パンチ・クイズ」というのがありまして、若かりし頃の長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督がモデルになっています、カッコイイ!! パンチ賞として「毎週1台いすゞベレットが当たる」となっていますが一体この企画は何週続いたのでしょう・・・すごい経費ですね。こんなプレゼントのあるクイズはぜひ「高速有鉛」誌でやってほしいものです。他にはこの後の第二回日本グランプリで優勝することになる式場壮吉氏のポルシェ904が特集されていて当時のクルマに対する憧れが感じられます。 そして次の本はやっと70年代に入り幻のカー雑誌「カービート」になります。1976年(昭和51年)創刊ですが、ちょうどミニカーコレクションを始めてから1年くらいの頃なのでついこの前に思えます。本当に。 特集は「ファンシーバン大集合」ということで出始めのサーファーバンたちがディッシュホイールを履いてケツを上げて湘南は七里ケ浜を爆走しております。サーフィン、スケボー、ホット・ロッド・・・・・いい時代ですね。 この本も創刊記念読者プレゼントで「あげちゃうよこのフェアレディ」というビッグプレゼントがあり11年落ちのフェアレディSPを大奮発しております。当時はクルマをあげるのが好きだったんですね、高速有鉛も見習わないと。 同じ1976年にはもはや伝説となったポパイ創刊号が出ております。この本により変態は育成され、あらゆる分野の情報が入手出来るようになったのです。あらゆる物にこだわりを持つということを教育されてしまい世捨て人が育成されて行きました。 ナイキが出てUCLAが記事となり青空の下、明るいカリフォルニアが紹介されて憧れが募るばかりでございました。 きっとロスではみんなナイキを履いてUCLAのTシャツにショートパンツでジョギングしているのかと思っていましたが、憧れ続けて10数年1991年に初渡米の際、ロスの空港に降り立ったらそんな奴は一人もおりませんでした。ガックリでした・・・・・・ そして1979年(昭和54年)にはポパイに3年遅れてホットドッグ・プレスが創刊されました。まさにポパイのコピーで何から何までそっくりサンでした。 しかし一時情報の豊かさではポパイを凌ぐ時期があったかもしれません。創刊号ではポロシャツが特集され、変態も大好きだったラコステのバリエーションが紹介されています。素敵です。 そして同じく1979年には企画室ネコがスクランブル・カー・マガジン創刊0号を出しております。こだわりのクルマ雑誌を作っていたネコはこの後巨大な出版社、ネコ・パブリッシングになります。 創刊0号はミニの特集でありますがペラペラの薄っぺらい本で、これがその後分厚いカー・マガジンになって行くとはこの時は思いもよりせんでした。 今も表紙は憧れのBOWさんがイラストを描いていますが、変態は中学生の頃よりBOWさんに憧れていて、1993年に初めてお会いしたとき、この創刊0号を持ち込みミニのイラストのところにしっかりサインを頂きました。変態冥利に尽きます。 そしてもういい加減にしろと言われそうなのですがあと1点だけ紹介致します。 これは1990年(平成2年)の創刊である“Mooneyes Nooz”でございます。初代タイトル文字を1-Shot Paintで描いたのなんてついこの前の事なのです。 とっても手作り感のある第一号は、懐かしいStudio初期のPinstripe作品、黒のRS56クラウンピック・アップ“The Magic of the Blue”が紹介されています。紹介といってもBossの作文によるものなのですが、これが75%くらい英語になっていて、初めて見た時は「日本語と英語をシンクロさせた新しい言語」という感じでチンプンカンプンだったのです。しかしこれがMooneyesが作る文章のスタイルとして確立されて行きました。今はここまで英語は多くありませんが・・・・・ 他にはBossの70年代立川基地のDrag raceの想い出話しや大井競馬場で最後の開催となった「第4回Street Car Nationalsが開催されるぜ」といった記事が載っています。 思い起こせばこれがWildman最初のSCNにおけるPinstripeデモだったのですね。しかもこの時はまだWildmanという名前を”Big Daddy”Rothから授かる前でして、何と“Small Daddy”と呼ばれていました。そんな事すっかり忘れておりました。 大先輩のHot Stuffの山口サンと“Battle of Pinstriping”なんてのもやりましたっけ。90年なんてついこの前のことなのですが・・・ このNooz創刊号は今回紹介した他の創刊号に比べてはるかに入手が難しいと思われます。持っているアナタは真の変態であります・・・今から探すあなたはもっと変態です。 それにしても月刊Wildman’s Blogの創刊はいつになるのでしょうか・・・ それだけが気がかりな今日この頃であります。

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悲しきオモチャたち、オキュパイド・ジャパン

先週のブログでジューシィ・フルーツのお話なんかしたところ、どーいう分けか「Wildmanアイドル好き疑惑」が持たれてしまい変態冥利に尽きましたが、別にアイドルなんかには興味無く、アイドルが履いていたスニーカーに興味があるだけなのでご心配なく・・・ハッとしてGood!なスニーカーぶるーすですよ。 そして今回のお話はグッと時間が巻き戻されまして、遂に終戦直後の時代までタイムスリップ致します。といってもさすがの私もそんな昔には生まれていませんのでオモチャたちでその時間に到達するのです。オモチャって本当に素晴らしいタイム・マシーンですね!!ということで今回は真面目に歴史のお勉強でございます。 第二次世界大戦が終わった頃、復興間もない日本で細々とオモチャが作られ始めました。オモチャといっても粗末なもので画像のブリキのジープがそのたぐいのモデルになるのですが、見ての通りとりあえずジープのような形をしているだけです。しかも裏板をみてビックリですが、何と空き缶をそのまま利用して組んであります。 進駐軍の捨てていったゴミも貴重な物資だったという事ですね、寂しいものです。 そして敗戦貧乏国日本は外貨獲得のために輸出産業に力を入れ始めます。その先陣を切って作られ始めたのがブリキのオモチャたちになるのです。 最初は空き缶ジープのような粗末なものからスタートしましたが、やがてそれは驚異的な進歩を見せ1950年代中期までには輸出の花形産業となって日本製のオモチャは海外で高い評価を受けるようになります。 そのような素晴らしいモデルが作られるちょっと前の時期に、やる気はあるがまだ技術が付いていっていない感じのオモチャたちがあります。それらは1947年から1952年までの約5年間の間に作られて海外に輸出されたものたちなのです。 この間はまだ日本は占領下にあったのでパッケージやモデルにその事を明記する義務がありました。聞いたことがあるかもしれませんが”Made in Ocuppied Japan”という言葉がプリントされているのです。 今や世界に誇るクオリティのメイド・イン・ジャパンではなく、メイド・イン・オキュパイド・ジャパンという長ったらしい文章は「占領下の日本製」を表している悲しいオモチャたちなのです、ああ悲しい・・・ しかし先人たちの苦労があったからこそ、日本は輸出大国になっていったのです。昭和万歳でございます。そんな悲しい歴史を持つオキュパイド・ジャパンのオモチャたちなのですが、Wildmanの手元にも何点かありますので今回強制的に紹介させて頂きます。 まず緑色のアメ車と思わしきモデルはゼンマイ駆動でパッケージ付きですが、そこにプリントされている文字が”Made in Ocupad Japan”となっていてOccupied のスペルを堂々と間違ったままプリントし、輸出されてしまった所に製作者の気合を感じます。何事も気合です! そしてまさに終戦直後の三輪トラックのモデルはバイクに荷台を付けただけの初期の三輪トラックですが、おそらくマツダかダイハツあたりをモチーフとしているのでしょう。ゼンマイも快調で変態部屋の中をあっちこっち走り回ります。エンジンのシリンダーや荷台の幌を一生懸命表現しているところに製作者の気合を感じます、何事も気合です! そしてついに車種を特定できるモデルの登場です。変態の皆様ならご存知の有名車は何とビックリ「タッカー・トーピード」でございます!!!!タッカーですよ、タッカー!映画にもあのなったタッカーです。1948年にビッグ3を脅かす存在として華々しくデビューしたタッカーは見事ビッグ3の妨害を受けて、たったの51台を作っただけであっさりと自動車業界から抹殺されてしまった悲運の名車(迷車?)になります。三つ目のヘッドライトやリアに搭載 されたエンジンは水冷SOHCのフラット6という変態的なメカをもっていたのです。それにしても当時でも珍しいタッカーをはるか極東の街工場の気合の入った職人さんがブリキのオモチャ化するなんて・・・・まったくもってナゾであります。だって当時日本にタッカーの情報なんてまともに入ってくるわけありませんから。きっと職人さんが進駐軍の兵隊さんにLIFE誌かなんかもらってそれの広告にでも写ってたタッカーの写真を見て「おお、これだ!」とひらめいてその写真だけを頼りに気合で作ったのでしょう、何事も気合であります!! しかもタッカーのモデルは2台あります。きっとその本を回し読みして隣の工場でも 「おお、これだ!」とひらめいて作ったと解釈しております。なんたって60年も前の事ですから・・・・ パッケージ付きのモデルはまさに写真一枚を頼りに作ったとしか思えない出来ですが、 ちゃんと3灯を表現し全体のスタイルはまさにタッカーしております。ゼンマイも60年たっても快調であります。しかもパッケージにはHappy Carというネーミングとトホホな富士山のイラストが・・・富士の裾野を走るハッピーな迷車タッカー、まさに気合であります。 2台目のタッカーはうって変って素晴らしいプロポーションを持っています。実は回し読みの 本を見たのではなくちゃんとシカゴのタッカー本社から図面をもらって作った としか思えないような出来を見せています。そんなものもらえるわけありませんが・・・・ しかしそこはやっぱり占領下の街工場製、適当な解釈はものすごいカスタムを生み、なんと屋根にごらんの通り巨大なスピーカーが並んでます。放送宣伝車で8ナンバー でも取るつもりだったのでしょうか。やっぱり気合いが違います。 そんなこんなで1952年サンフランシスコ講和条約により連合軍による占領解除が施さ れメイド・イン・オキュパイド・ジャパンの時代は終わりを告げて、やっとメイド・イン・ジャパンと堂々とプリントされるようになったのです。この後数年の内に日本製のオモチャは 驚異的な進歩を見せ数々の名作を生み、現在世界中のビンテージ市場でも高く評価されています。 この画像のジャガーXK120は米澤玩具製の50年代中期のモデルですがごらんの通り現代の目で見ても素晴らしいプロポーションでメイド・イン・ジャパン黄金期モデルとして評価されています。ちなみに力道山先生がこれとまったく同じボディカラーの実車に乗られておりました。さすが先生であります。 ついでにもうひとつの画像は日本同様敗戦国のドイツ製ですがオキュパイドジャパンと同時期のミニカーであります。プラメタというブランドのミニカーで1952年たったの一年間だけイギリス占領地区ドイツにて作られておりました。 “Made in British Zone Germany” と明記されています。同じ敗戦国でもこの時点では 全然技術が違いますね、ものすごい出来なのです。ダイキャスト・メタル製でゼンマイにより走行はするは、前輪はステアするは、プロポーションは猛烈に正確だはと同じ敗戦国とは思えない脅威の出来っぷりであります。ドイツ人も気合であります。ちなみにプラメタ全5車種を集めるのに30年掛かりました。こちらも気合であります。 それにしても戦後黄金時代を誇ったアメリカのビッグ3は現在最悪の時期を迎えていますが敗戦国の日本とドイツのクルマが世界を牛耳っているとは皮肉なものです。 日本もドイツも戦後のオモチャ作りから始まり、気合いでそれらが世界最高のものとなり、ついには世界最高水準のクルマを作り続けている両国となりましたが今後どうなって行くのでしょうか。かつて黄金時代を誇ったMade in USA車の逆襲はあるのでしょうか。 2030年のブログで書いてみたいと思います。 今回はオモチャにおける戦後の歴史を研究題材としてみました。いつも真面目なWildman’s Blog、今後も気合で長文を読破して下さい。何事も気合であります!

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