Wildman 名前の由来

1990年、Pinstriperとなって1年が経った頃、初めてアメリカを訪れユタ州のEd Rothの元へ行く事になりました。1989年の日本の3rd. Annual Mooneyes Street Car NationalsでRoth本人に会ってそのパフォーマンスをライブで見て感動し、Pro Pinstriperになる事を決意しましたが、今度はアメリカで再会し新たにRothよりPinstripeについて学びたく思っていました。LAXにてRothと落ち合い、クルマで遠くユタ州の彼の家に向かう訳ですが、狭い室内の彼の愛車Mazda Pick upの助手席に乗ろうとすると、「何、やってんだHiroが運転していってくれよ」ととんでもない一言が!初めて来たアメリカで初めての運転でそんな距離を走らされるとは思ってもいなかったので正直焦りましたが、フラフラとFreewayを走り、朝だか夜だか分らない時間に何とかユタのRoth宅に到着しました。するとそれまで殆ど眠っていたRothが言いました、「いや〜初めてのアメリカでよくこんな所まで運転してきたな!おまえをWildman と呼ぼう!」の一言でRothより"Wildman石井"という名前を命名していただきました。

Here is a story for people who are not familiar about why Pinstriper Mr. Ishii is called "Wildman" Ishii. He was named "Wildman" by ED "Big Daddy" Roth. It was when Mr. Ishii traveled to Utah to be trained as Pinstriper by Ed "Big Daddy" Roth at his home. Ed "Big Daddy" Roth was only expecting Mr.Ishii to drive from airport in Utah but when Ed Roth found out that Mr. Ishii actually drove all the way from LAX airport in California, Ed "Big Daddy" Roth had to say "Oh! You are Wildman!. Let's make your name "Wildman" So his name "Wildman" has been called since then. Good story isn't it.

WILDMAN の作品

力道山先生の足跡を訪ねてPart.II

秋晴れの中、おととい出張Paintに行って来ました。 私のような小心者はプライベートでも仕事でも絶対に遅刻なんかしないので(ムーンアイズ営業部:松浦君よく聞いておくよう・・・・)約束の1時間15分も前に現場付近に着いてしまい(早過ぎます)仕方がないので高速道路のSAにてコーヒーブレイクを敢行し、朝焼けの中一人ベンチに座ってほろ苦い缶コーヒーをすすっておりました。 するとですね、あっちの方から何やら小さな青い物体がこっちにやって来たのです。「むむ、なんだあれは」と思っていると、青い物体は私のほうめがけて進んで来てピタっと目の前に止まったのです。次の瞬間私は「ウオオオオ~」と叫びコーヒーを吹き出してしまいました。小さな青い物体はスバル360だったのです。いやスバル360なんかちっとも珍しいクルマじゃないのですが、そいつはただのスバルなんかじゃなくってなんとまあ初期型の超レア車「デメキン」スバルだったのです!!! 「ここここ、これは一体何なんだ、夢か幻か本当に頭がおかしくなったのか?」と思いましたが、現実に目の前にあるのは紛れもなくデメキンなのでした。いや~、イベントや博物館なんかで見たことはありますけど、実際に高速道路を走って現れたデメキンなんて生まれて初めて見ました、凄過ぎます!! オーナー様に「私は決して怪しいものではありません、ただの変態です」とことわった後、写真を撮らせて頂きました。デメキンヘッドライト、スライドウィンドウ、素敵な書体のエンブレム、蜜をかけて食べてしまいたいくらいかわいいテールレンズ等々初期型のディティールにしびれまくり、失神しそうになりながらも無事撮影を終えました・・・・お話しを聞くと’61年型との事で、ウチのおやじのファーストカーとほぼ同じモデルでした(2008年2月22日Wildman’s Blog参照) オリジナルで程度も良いそのデメキンさんは、快調な2ストサウンドと白煙をまきちらしながら朝焼けの中、高速道路のかなたに消えて行きました。その日は仕事を終えて家に帰ってから、朝会ったのと同じブルーのブリキのデメキンさんを見てウットリしながら就寝致しました・・・・zzzzzzz ということで唐突に力道山先生なのであります。だって先週からの続きなんだもん・・・ 前回のブログでご紹介した、日本橋は人形町の「プロレスリング・センター」力道山道場跡及び渋谷は道玄坂の「リキ・スポーツ・パレス」跡を取材撮影した後に向かったのは、赤坂見附でありました。赤坂の地は先生が「リキ・アパートメント」や「リキ・マンション」をお建てになり、リキ王国を築こうとしていた土地なのであります。しかしそこは先生が命を落とした地でもあるのでした・・・・・ 昭和38年12月8日は力道山先生の運命の分かれ道でした。前日に浜松でデストロイヤー(噂のチャンネル)らと年内最後の試合を終えた先生は夜行列車で8日に帰京しました。しかしこれは本来の予定ではなく、急用により東京に戻られたのでした。日本相撲協会から「大相撲アメリカ巡業に力を貸して欲しい」と頭を下げられて頼まれ、元「関脇力道山」はこのお願いの為に急遽予定を変えて東京に戻ったのです。元々相撲に裏切られる形で角界を飛び出しプロレスラーに転身して成功した先生にしてみれば、相撲協会から頭を下げられるというのは痛快だったのでしょう・・・・ この日、相撲協会との打ち合わせを終えた先生は夜の赤坂の街に繰り出しました。プロレスの打ち上げも兼ねていたので多数の取り巻きをひきつれた先生はほろ酔い気分になり「もう一軒行こう!!」となりました。この時「コパカバーナ」というクラブに行く予定だったのですが、ちょっとしたことから先生は気分を害し「やっぱコパはやめだ、ラテンに行こうと」急遽行先を「ニューラテンクォーター」という超高級クラブに変更したのです。 ニューラテンクオーターというのは昭和30年代から40年代に掛けて全盛を誇ったお店で、海外から大物エンターテイナーを招致していてサミー・デイビス・ジュニアやザ・プラターズ、ダイアナ・ロスまでこのお店に出演していました。政界、芸能人、スポーツ選手、そしてヤクザさんが利用する「座っただけでウン万円」のお店のはしりで、力道山先生もよく御利用されていました。 先生はラテンで程よく酔っ払って、ロビーの方に行かれそこでホステスさんと立ち話をしていました。するとそこにトイレに行こうとしていたヤクザ屋さんのM氏が先生の横を通り「足を踏んだ、踏まない」で口論になりました。短気な先生はM氏をぶっ飛ばしてしまいました。3mくらい飛んだそうです。そして馬乗りになってボコボコにしているとM氏が下からナイフを突き出しました。以前M氏は外人プロレスラーとケンカしてひどい目に会っていたので殺されると思ってのことでした。そりゃプロレスのチャンピオン力道山に馬乗りになられれば正当防衛ともいえますよね・・・・ 腹部を刺されてしまった先生はその後、ラテンや病院で大暴れした後、早朝になってやっと手術を受けました(もっと早くしておけばよかったのに・・・・)先生にとってみればたいしたキズでもなく、その後入院し驚異的な回復を見せていましたが、突如腹膜炎を起こし再手術をするも、先生は旅立たれてしまいました、合掌・・・・ついこの前の昭和38年12月15日のことでした。 こうして戦後のスーパースターである力道山先生はあっけなく皆の前から姿を消してしまったのです。 その後、昭和の時代は先生の死についていろいろ言われ「入院中にコーラを飲んで死んだ」とか「リンゴを食ってしんだ」というバカな話がまかり通っていました。しかし平成になって先生の死の真実がやっと突き止められました。 ハイ、単なる医療ミスでございました。入院していた病院で麻酔時に筋弛緩剤を使用した際に気管内挿官に失敗して無酸素状態が続き、呼吸が出来なかった(人工呼吸をしなかった)というもので意識があるのに呼吸が出来ないという何とも恐ろしいものなのでした。先生が可哀そう過ぎます・・・・ 下記の本に詳しく解説されておりますので皆さまも「麻酔と蘇生」を研究して下さい。 先生の没後46年が経ちましたが、運命のお店「ニューラテンクォーター」もすでにこの世には存在致しません。 ラテンはあの大惨事(火災) を起こした「ホテル・ニュージャパン」敷地内の地下にあったのです。現在その跡地には「プルデンシャル・タワー」というこのような高層ビルに生まれ変わっておりました。近くには六本木ヒルズもあって、現在の景色からはラテンがあった頃の昭和30年代の風景は想像もつかないような感じになっています・・・・ 先生がリキ王国を築こうとしていた赤坂周辺は現在では先生の目論見通り立派な街になっております。さすが力道山先生であります!!

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力道山先生の足跡を訪ねて・・・Part.1 力道山先生の足跡を訪ねて・・・Part.1

秋らしいとってもいい天気が続いているので、とってもいい気分になりまして この前のお休みの日に早朝ロケを敢行し、力道山先生の元を訪ねることにしました。 久々の東京巡業でしたが早起きして先生の所に行くのは全く苦になりませんでした。 まずはお江戸日本橋方面にGo!となりまして、誰も歩いていない早朝の人形町は久松警察署前の 大通りをトボトボとデジカメ片手に歩く変態が一人・・・ 「大丈夫です、私は怪しいものではありません、ただのマニアです」とおまわりさんの前を通過する時、 心の中でつぶやいておりました。 そしてNTT茅場兜営業所に無事到着、今日は東京まで電話料金を支払いに来ました。 じゃなくってここなんですよ、先生がいらっしゃったのは!!! そう、ついこの前の昭和30年7月8日にこの場所に「プロレスリング・センター」力道山道場が 完成したのであります、一度も見てないけど・・・・ 当時のお金で総工費7500万円も掛けた5階建てのビルは道場のほかに合宿所、事務所、ニュース映画館、プロレステレビ中継用の観覧席も有るかなり豪華なビルなのでした。 そう、あのジャイアント馬場が巨人をクビになり大洋ホエールズ移籍もケガでプロ野球を断念、そしてプロレスに入門する為に訪れたのもこのプロレスリング・センターなのでした。 わが大洋に残っていればこの昭和35年は大洋ホエールズが初優勝した年だったのに・・・ でも力道山先生の弟子になったおかげで馬場さんはあのようなプロレスという新たな職に就けスーパー・スターになれましたね。 もはや元プロレスリング・センター周辺はビルばかりで当時の面影も無く、 まさかここに力道山道場が あったなどとは誰も思わないでしょう・・・・・ そしてお次は渋谷に移動となりまして、渋谷駅の裏から道玄坂をトボトボと歩く時間のいたずらで力道山道場に入門出来なかったマニアが一人・・・・ 朝早すぎてこんなに人が歩いてない渋谷は初めてです。 つい28年ほど前、生まれて初めて行ったディスコ(死語)もこの界隈でしたが、その時に履いて行った憧れのアメリカ製スニーカー「ナイキ・テラTC」はまだ持っています・・・どうでもいいですけど。 さて到着したのは坂道の途中にある総ガラス張りの「ヒューマックス渋谷ビル」であります。 でもこのビル自体には何の用事もないのです。しかしここは先生にとってとっても大事な 場所だったのです。 全くついこの前である昭和36年7月30日、この地に力道山先生の夢のプロレスの 殿堂が完成したのであります!! その名も「リキ・スポーツパレス」という巨大な施設で当時 のお金でなんと15億円!!!を投じて作った物でした。地上9階地下一階、述べ2千坪 のビルは屋上をドーム場のデザインにしてっぺんには王冠が輝くという昭和趣味の豪華 絢爛デザインなのでした。 基本的にはプロレスのTV中継が出来る常設会場になっていて(2千人収容)力道山 道場とリキ・ボクシングジム、ボディービルジム、事務所も併設されていました。 さらに日本に入ったばかりのボーリング場、ビリヤード、スナックバー、レストラン、喫茶店、 チャームスクール等も入っていて極めつけは「リキ・トルコ」も入っていたのです・・・・ でもこれはムーンアイズ営業スタッフ松浦君の好きな○ープランドではなくて、 スチームサウナなのでした、安心して下さい。 まだ日本では珍しかったボーリングや建物内部のデザイン、会場内のスポンサー看板 設置等は力道山先生がアメリカで見て吸収してきた物で、それらを具現化してしまう 所はさすが先生なのでした。 プロレスを始めて10年、このとき力道山先生は36歳・・・凄過ぎます。 ピンストを始めて20年、このときワイルドマン45歳。・・・・変態過ぎます。 リキ・スポーツパレスは完成後、当時隆盛を極めるプロレスのメッカとして昭和の人たち に親しまれ、ボクシングの試合や歌謡ショーなどにも使われ、力道山の城として渋谷の 街にそびえ立っていたのです。 しかし先生の死後、日本プロレスはこのビルを維持する事が出来なくなり、昭和41年 2月にリキ・スポーツパレスは売却されてしまい、以後キャバレーとして第二の人生を 歩む事になったのです。もちろん屋上の王冠ははずされてしまいました・・・・ そして建物が老朽化し、平成4年に先生の城は解体されてしまい、2年後に現在の ヒューマックス渋谷ビルに建て替えられたのでした。サヨウナラ、リキ・パレス・・・・・ 先生の死後46年が経過し、もはや力道山の足跡は殆ど残っていないのです。 しかし次回ブログは無理やりPart.2への展開となりますので心得ておくように。

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チャオ!イタリアでルパンIII世だ!!

皆様お久しぶりでございます。9月はブログの更新がなかなか出来ず大変御迷惑をお掛け致しました・・・・・・本当にすみません。実はですね不肖Wildman、人生初のヨーロッパ出撃となりましてですね、芸術の国でもありとっても適当な国でもある?イタリアへ行って参りました。 どうだ、まいったか!!!ぜんぜん参りませんよね・・・・・そうなんですよ9月末にですねイタリアはミラノで”Kustom Kulture Art Show”というその名もズバリArt Showが開催されまして、そちらに招待された日本人4名で乗り込んで来たのです。 M&K Custom SignsのMakoto君、Mr.G君、私Wildman、そしてKustom Kultureといえばこの人Nash氏も同行し、計4人でのイタリア巡業となりましたが、詳しいレポートは「芸術と落書きの国、イタリア浪漫紀行」として先週のMooneyes Mail Magazineに掲載してありますのでみんな読んでますよね!? 何、読んでない???そんなマニアじゃない不謹慎な方はとっとと登録して早く読んで下さいね!!! でも今回はSpecialでお見せします!(実は見てもらいたい??) そうそう、Nash氏といえば”Burnout Magazine”ですがこのほどめでたく創刊10周年記念号が出版されました。おめでとうございます!!! この号にはこの夏に開催したMooneyes Signs & Pinstriping Studioの20周年記念イベント”AHOOW”のレポートを何と4ページも割いて掲載して頂きました、本当にありがとうございます!! 思い起こせばついこの前の1999年創刊号にも私のインタビューを掲載して頂いておりまして、何だかんだで10年のお付き合いとなり、Nash氏と初めて会ってからは何と18年になります(しかも会ったのはボンネビル) こうなったら10年後の20周年記念号にも出して頂きたいと思いますので宜しくお願いします!! そして唐突ですがイタリアといえばフィアット500なのです。500のイタリア語読みである「チンクェチェント」の愛称で親しまれたイタリアの国民車はルパン三世の愛車でもありますよね。ちなみにこれはイタリアで会ったルパンです・・・ チンクはついこの前の1957年に登場してから何と1977年まで20年間も生産された長寿車両であります。鬼才ダンテ・ジアコーザの設計となるモノコックボディのリアエンジン・リアドライブ車はオモチャのような空冷2気筒479ccエンジンを積んで、大変ユーモラスなデザインもあってイタリアはもとより世界中で人気ものとなりました。 そして21世紀には新世代のフィアット500が生まれましたが、これはNew BeetleやNew Miniのデザイン同様、そのデザイン・コンセプトを昔のチンクに求めていますね。 今回イタリアに行った際、きっとたくさんの旧チンクに会えるだろうと期待していたのですが、ミラノやローマの街ではたったの5台しか見掛けませんでした・・・・さすがに製造中止から30年以上が経過し、あれだけたくさんイタリアに生息していたチンクもすでに息絶えていたようです。代わりに新しいフィアット500は結構見ましたが・・・・ ミラノの空港ではNewアバルトが展示されていましたが、これはカリスマ店長のお気に入りでありまして、店長次期愛車候補の筆頭なのです。早くサソリマークのアバルトをゲットし蠍座の男になって下さい・・・・ それにしてもマスタングをチューンするとコブラのマークが付いてShelbyとなり、フィアットをチューンするとサソリのマークがついてAbarthとなってどっちもこっちも改造車は咬まれたり、刺されたり痛そうですな・・・ 昔の”Fiat Abarth”といえばチューニングの神様「カルロ・アバルト」の手により何の変哲もないチンクが、アバルトの工場に入ると猛烈にホットなクルマと化し、サソリのエンブレムが付いてマルミッタ・アバルトの強烈なサウンドとともに飛び出してくるという、まさにカーグラの世界なのであります。 10年以上前なのですが愛車Mustang GT350で国道16号線、鶴ヶ峰付近を激走中、反対車線に赤い小さなクーペを発見、よく見ると何とフィアット・アバルト・スコルピオーネではありませんか!!!とてもスピンターンを決める腕はなかったのでゆっくりとUターンし、スコルピオーネを捕獲しました。じゃなくって信号待ちの時にオーナー様に声を掛けてクルマを見せてもらったのです。変なアメ車が追って来たのでオーナー様はすごく驚いていたのですが、「怪しいものではありません、ただの変態です」と言って納得してもらいました。 そのスコルピオーネは60年代アバルトのディーラーだった「山田輪盛館」が輸入した2台のうちの1台の生き残りで、塗装名人中沖満氏の名著「力道山のロールスロイス」にも出てくるクルマだったのです!!!(Wildman’s Blog 2008年1月4日参照)山田輪盛館のディーラープレートも残っていて、とても貴重なクルマを十分に堪能させて頂きました。オーナー様、その節はありがとうございました!! それはそうとWildman的にはアバルトも実車より当時物ミニカーなのであります。チンクベースのアバルトとして595esse-esseや695esse-esse等がありますが、ちゃんとミニカー化されていたのです。イタリアはMercury社製1/43の595SSは2本出しのマルミッタ・アバルト(アバルトマフラー)やサソリのデカールで盛り上げていてちゃんとアバルトしています。 さらにHot Wheelsのマテル資本になってからのイタリアはMebetoys社1/43 Gran Torosブランドのはさらに排気量アップした695SSをモデル化してます。タイヤもHot Wheels流にぶっとくなり、ホイールはカンパニョーロをイメージしていて、もちろんマフラーもサソリマークも再現されています。マスタードイエローのボディーカラーがとっても素敵です!! でっかい1/25スケールでもモデル化されていて真紅のイタリアPolitoys社製は巨大なサソリマークが迫力満点の595です。 今度はスペインのNacoral社製で595のモデル化だと思われます。超ワイドホイールと、4連フォグランプで武装し、ワイパーやドアノブも別部品で’70年頃のミニカーとしてはとっても凝った作りなのです。華奢な作りで、程度の良いのはなかなか出て来ないミニカーです。 イタリアの街ではもう見られなくなってしまったチンクやサソリ達ですが、当時物ミニカーならいつでも当時の雰囲気を味わえるのが素晴らしい事なのです。 チンクに乾杯であります、Cin cin!!

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