Wildman 名前の由来

1990年、Pinstriperとなって1年が経った頃、初めてアメリカを訪れユタ州のEd Rothの元へ行く事になりました。1989年の日本の3rd. Annual Mooneyes Street Car NationalsでRoth本人に会ってそのパフォーマンスをライブで見て感動し、Pro Pinstriperになる事を決意しましたが、今度はアメリカで再会し新たにRothよりPinstripeについて学びたく思っていました。LAXにてRothと落ち合い、クルマで遠くユタ州の彼の家に向かう訳ですが、狭い室内の彼の愛車Mazda Pick upの助手席に乗ろうとすると、「何、やってんだHiroが運転していってくれよ」ととんでもない一言が!初めて来たアメリカで初めての運転でそんな距離を走らされるとは思ってもいなかったので正直焦りましたが、フラフラとFreewayを走り、朝だか夜だか分らない時間に何とかユタのRoth宅に到着しました。するとそれまで殆ど眠っていたRothが言いました、「いや〜初めてのアメリカでよくこんな所まで運転してきたな!おまえをWildman と呼ぼう!」の一言でRothより"Wildman石井"という名前を命名していただきました。

Here is a story for people who are not familiar about why Pinstriper Mr. Ishii is called "Wildman" Ishii. He was named "Wildman" by ED "Big Daddy" Roth. It was when Mr. Ishii traveled to Utah to be trained as Pinstriper by Ed "Big Daddy" Roth at his home. Ed "Big Daddy" Roth was only expecting Mr.Ishii to drive from airport in Utah but when Ed Roth found out that Mr. Ishii actually drove all the way from LAX airport in California, Ed "Big Daddy" Roth had to say "Oh! You are Wildman!. Let's make your name "Wildman" So his name "Wildman" has been called since then. Good story isn't it.

WILDMAN の作品

懐かしのライオン丸は不良のシピンだぜ!!

皆様こんにちは、本日Wildmanは目の前にデッカイ富士山がそびえたつ静岡県は富士市の”Tried Customs”さんに出張Paintでおじゃましております。こちらに来ると70%以上の確率で雨を降らすことが出来ますので、ひと雨浴びたい方は「雨の神様」に会いに来て下さい、お待ちしております!!!

さてプロ野球もオールスターが終わり、上位チームのみ混戦模様となっていて、それ以外の所は上位チームへの奉仕活動に勤しんでおります。同じ「プロ」でもなんでこんなに差がつくのか不思議でなりませぬ・・・

我がベイスターズはシーズン当初のWildmanの予想によると「今年は間違いなく最下位脱出!!」と読んでおりましたが、撤回致します。「ブッチギリの最下位確定!!」を断言致します、すみません・・・・

一応ね、FAやらなんやらで色んな選手を獲得し、これで今季は何とかいけそうだぞと思っていましたが、私が日本を離れたすきに9連敗もこいてセ・リーグを盛り上げる立役者となり、その後も1回勝っては5回負けるというような驚異の勝率を誇っております。

打つ方はね、それなりにメンツも揃っていてそう悪くはないと思うのですが、何しろピッチャーですよ、ピッチャー。野球はピッチャーなのですよ、昔から・・・今のベイスターズにはまともなピッチャーがおりません。バッティング・ピッチャーは沢山いるみたいです。

現状ではピッチャーがいないのに勝手に野球をやっているような感じなので、試合が成立するわけがないのです。Wildmanの提案としては1~2年くらいベイスターズはペナントレースをお休みしてですね、その間にピッチャーを育てて、それから復帰した方が良いと思います。ファンに対して失礼なので。

外国人選手もここ数年は不作でして、’98年優勝時の「ロバート・ローズ」様以来まともに機能した方はおりません。最近ヤケクソでテスト入団させた「ハーパー」君は頑張って働いておりますが・・・ジャイアンツ戦では奇跡の逆転サヨナラ満塁ホームランでした。

ホエールズ時代はたとえ弱くても、個性的なピッチャーや外国人選手たちがいたので、まだ応援するのも面白かったのです。

外国人選手といえば、初めて実物を見たのはあの「ジョン・シピン」でした。ライオン丸いうというあだ名の付いた、髭面長髪のシピンはついこの前の1975年に川崎球場で初見致しましたが、フラワーパワーのChevy Vanが似合いそうなヒッピーにーちゃんという感じでした。このシピンは素晴らしいバッティング&守備を見せてくれ、ホエールズ&ベイスターズの歴代外国人選手の中でもWildman的にはトップ5にはランクされるでしょう。

シピンはあと一歩でメジャー入り出来た実力のある選手でしたが、このヒッピースタイルが、当時のメジャー監督らに嫌われて結局マイナーでくすぶっていたそうです。

その昔大洋ホエールズには牛込さんという優秀な外国人選手スカウトがおられ多数の素晴らしい選手を日本に連れて来てくれました(失敗もあったけど)ついこの前の昭和46年に牛込さんがアリゾナの教育リーグに行った時、試合中にサンフランシスコ・ジャイアンツの極東担当スカウトが来ていて、シピンを紹介されたそうです。そのスカウトこそがかつて力道山先生のもとで働いていた「キャピー原田」さんなのでした。原田さんは先生の存命中にリキ・エンタープライズで重役としてご活躍されておりました。こんなところでも力道山先生が関係してくるとは・・・

シピンはホエールズが当時のマイナー選手としては破格の条件の2万5千ドルという年棒を提示しても、ウンとは言わず、結局3万5千ドルまで吊り上げさせて契約したそうです。これは当時元現役大リーガーとしてホエールズに在籍していた「ボイヤー」よりも高かったそうで問題になったようです。

そしてシピンは打ちまくり、年棒分の働きはしっかりとして人気選手になりました。シピンの活躍で数年間はホエールズは新たな外国人選手を必要としませんでした。人気が出てくるとシピンは日本の芸能人と付き合うようになり、夜遊び等に明け暮れ素行不良外国人のレッテルをはられるようになりました。でも、グラウンドで結果を残してしまうから、球団としても強く指導出来ないのでした。その後女性問題なども起こしてしまい、結局球団は実力があっても見切りをつけシピンを何とジャイアンツに金銭トレードしてしまいました。

このころからおかしいのですよ、ベイスターズは今でも活躍した外国人選手を同一リーグに放出するという茶番を演じています・・・ウッズしかりクルーンしかり。その後ケガをするまで数年間、長髪を切り髭を剃ったシピンはジャイアンツでも活躍し、大洋の門田投手をぶん殴ったりしていましたね。アメリカに帰国後はバッティング・センターなんかをやっていたそうです、失敗したけど。

牛込さんはシピンに対して「充分に活躍してくれたが、それ以上にわたしの寿命を縮めてくれた」と回想しておられます。スカウトは大変だ・・・

シピンの残した教訓として「外国人選手をとるときは、家族関係、性格などを十分に調べる必要あり」ということでした。

いまではシピンのような個性的な外国人選手も少なくなってしまいましたね。ヒッピーでも不良でもなんでもいいから、面白い野球を見せてくれる選手を強く希望致します。マウンドでジーン・シモンズのように火を吹いたりとかメイクしたりとか。ベイスターズさん何とかして下さいよ・・・このままでは球団の存続も危ぶまれます。

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コブラを食い殺す怪物は同じ心臓のマングスタだぜ!!

猛烈に暑い中、皆様お元気でしょうか? 私は今はとっても元気ですが、先週は一時とっても不元気でありました・・・

というのはですね灼熱のイベント”Mooneyes Summer”参加の為に渡米中、イベント2日前の夕食でなぜかCaliforniaにてアジフライを食したところ、これが見事に大当たり!! 美味しかったとかそういうのじゃ無くって見事に食あたり!! イベント前日の搬入日はトイレと友達になってしまい、もう何も出来ない状況でグッタリしておりました・・・・・

これまで絶対に効いていたはずの大好きな正露丸糖衣を飲んでも全く効かず、このままIrwindale Speedwayで干からびてしまうんじゃないかと思いましたが小心者だけに何とか立ち直り、イベント当日には復帰致しました。皆様にいろんな薬を頂き、それをブレンドして飲んだのが良かったのではないかと思っております。

Mooneyes Summerに関してなのですが、今回は全く雨も降らず絶好のイベント日和となり、ShowもDrag Raceも私のお腹もエキサイティングな一日となりました。詳しい内容に関しては今回初渡米となったMooneyes Staffの”TAJI”君がレポートをまとめましたので今週のMMMをご覧ください、ここをクリックと。まだMMM登録してない方は早いとこ手続きして下さいな。

で、やっと本題であります。前々回のブログではこれまであたためていた「マカロニほうれん荘」について語らさせて頂きましたが、沢山の反響がありまして嬉しい限りでございます。でもあんまり勝手な話題ばかり提供していると真面目な?読者が離れていってしまうのでちゃんとクルマのお話もします、ミニカー絡みですけど。

ずっと前に「デ・トマソ・パンテーラ」について語らさせて頂きましたが、(Wildman’s Blog 2008年9月20日参照)今回は「ダイハツシャレードデ・トマソ」についてです。じゃなくって、今回は「デ・トマソ・マングスタ」についてのお話です。

アルゼンチンでペロン大統領官邸襲撃未遂事件を起こして国外退去となった「アレッサンドロ・デ・トマソ」さんはイタリアに渡って、レーサーとなりました。そして大富豪のアメリカ人女性レーサーと知り合い結婚し巨万の富を手に入れ、レーシングカーの製作をおっぱじめ最終的にはF-1まで作っちまいました。いいな~人のお金でクルマが作れて・・・でもやっぱりレーシングカーじゃなくって普通の市販車も作ってみたいというのが人情でありまして、’65年にミッドシップの小型スポーツカー「デ・トマソ・ヴァレルンガ」を作って販売しました。

でもこれはレーシングカーに近くて商売としては成功せず、数十台を作っただけでフェード・アウトとなりました。カッコ悪いですね、コレ・・・なぜかWildman宅から10分のところに真紅のヴァレルンガが置いてありたまに見学しております。

その次にいきなりスーパーカービジネスに参戦してしまうというのが当時らしく今度はヘビー級のクルマ作りに着手しました。ヴァレルンガのレーシングカーみたいなシャシーを拡大して、フォードのV8をミッドに積み、ボディ・デザインはミウラの基本デザインを置き土産にベルトーネからカロッツェリア・ギアに移籍したばかりの新鋭デザイナーのジウジアーロが担当し、全高わずか1,03メートルのペッタンコなスーパーカーは「マングスタ」と名付けられ’66年のトリノショーでプロトタイプが発表され話題となりました。305馬力にチューンされたフォード289エンジンを積んだ約1トンの軽いこの車はあっさりとMax250km/hの世界に到達しました。

何といってもデザインが面白いですよね、リアのエンジンフードはガルウィングになっていて両側からガバっと開くなんて今じゃ考えられません・・・これを見るとこの後のパンテーラのデザインはおとなしく見えてしまいます。

マングスタの名前の由来は毒蛇コブラを食い殺す「マングース」のイタリア語で、これは当時コブラを作っていた「キャロル・シェルビー」との確執から来ていると言われています。

「中沖満」さんの名著「力道山のロールスロイス」の中にもマングスタが登場しています。60年代の後半、まだマングスタが新車だった頃、東名の飛ばし屋さんたちの中で有名だった謎のスーパーカーがこのマングスタで、あまりのスピードに誰も追いつけずしまいには「無人車輛だった」なんて噂もでていたのが、実は背の小さなご婦人がシートにクッションを敷いて、ハンドルの間から前だけを見てのんびりとアクセル全開で運転していたのがマングスタでありました・・・・

重いクラッチで「左足だけ太くなる」と心配していた女性オーナーは雨漏りにも悩ませれクレームした所「イタリアでは雨はそんなに降らないし、雨の中飛ばすクルマでも御座いませんので」という素敵な回答があったそうです。素晴らしい!!

排ガス規制の影響を受けフォード302エンジンに換装され1971年まで生産されていたマングスタは後をパンテーラに譲って消えて行きました。スーパーカーブームのころは年式的にも古く、派手なパンテーラの方が人気があったのでマングスタはあまり活躍しませんでしたね。

しかしマングスタ現役当時はミニカー界ではとっても人気があり、多数のモデルが生まれていました。あまりに多いのでWildman推薦のモデルを何点か御紹介致します。

まずは屋根にスクリーンを持つプロトタイプをモデル化したのが英国のCorgi Toysであります。カラーもホワイトとブルーのツートーンでアレッサンドロ・デ・トマソの故郷アルゼンチンのナショナルカラーをモチーフにしています、分かっていdらっしゃる。

何がすごいってこのミニカーはボディとシャシーが分離するアクションを持っていてマングスタの基本構造が理解出来るのです。エア・ファンネルやマグホイールもたまりません!!(だからウィールじゃないって)1960年代の子供のオモチャとしては驚異的なものがありますね。パッケージも凝っていてこのように分離状態で収められ、ネーミングもちゃんと”Ghia 5000 Mangusta with De Tomaso Chassis”となっていてこのクルマの成り立ちを表しているのです。

お次は謎のホンコン製モデルですが、ボディはプラスチックで出来ています。見ての通り、Corgi Toysのコピーモデルで、1/43スケールのCorgiを拡大コピーし1/25に仕立て直し、プラスチックで作っちゃいましたという感じなのです。このモデルは出来云々じゃなくって、箱にボールペンで書かれた文字に価値があるのです。「1971年の9月16日のヨーク・フェアーにてパパより」なんていう感動的な書き込みがあるじゃありませんか!!数十年経って私がこのモデルを購入し、この文字を見つけた時は、親子愛を感じひっくり返りそうになりました。この親子は今どうしているのでしょう・・・・ミニカーは歴史もコレクトなのです。

今度は何とアルゼンチン製の超大型モデルですが、40センチ近くもあるこいつは懐かしのリモコン式なのでした(ラジコンじゃないよ)電池を入れてハンドル式のコントローラーで操作する超アナログなおもちゃは70年代にマラドーナの故郷で作られていました。プラボディですが形はとても良いのです。それにしてもデカイ・・・

最後は本家イタリアのPolitoysのモデルです。ダイキャスト製ですが大型ミニカーの走りで、スケールは1/25で当時としてはとってもデカイのです。60年代後半当時の日本では何と¥2,700という超セレブなプライスが付いておりました。普通じゃ買えませんね・・・・

大型スケールを生かしフルアクションを持ち、マングスタ最大の特徴であるガルウィング式のエンジンフードもちゃんと開閉します、いい仕事しています。ステアリングを廻すと前輪がステアし、足回りも実車同様に再現され、ミッドのエンジンルームの隅にはパンタググラフ・ジャッキやバッテリーまで付いていて289エンジンもスペアタイヤもバッチリ収まっています。このマングスタは1960年代製造ミニカーにおける技術の集大成の一つですね。

デ・トマソ・マングスタはコブラ・キラーとし華々しく誕生しましたが、生産性の悪さも手伝って台数は少なく、後の大量生産長寿スーパーカー「パンテーラ」に道を譲り1971年にひっそりと消えて行きました。今じゃ、立派なビンテージ・スーパーカーとして価値がありますが当時もっと評価されたかったですね。

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Mooneyes Summerは快晴だぜ!!

皆様こんにちは。不肖Wildman ただ今アメリカに滞在中であります。

そう、昨年豪雨となってしまったMooneyes X-mas Partyのリベンジ

としてこの夏、7月18日に同じくIrwindale Speedwayで開催される

”Mooneyes Summer”に参戦する為に再度こちらへやってまいりました!!

いくらなんでも明日は絶対に晴れるはずなので、今度ばかりは

「雨の神様」の神通力も通用しないと思います・・・

で、MMMのヨーロッパ・ツアーのレポートは今回で完結となりますのでクリックしてみて下さいな!!

それでは皆様、また来週!!!

天才は一瞬の輝き、強烈だった「マカロニほうれん荘」

ヨーロッパ出張より戻ってからですね、メールマガジンMMM記事の執筆活動が忙しく、画像を見ながら懸命に作家としてのWildmanを表現しております。だからちゃんと今週もMMMのレポートを読んで下さいませ。

それにしても締め切りのある執筆活動って大変ですね。よかった、雑誌の編集者にならなくて。私には無理そうです・・・・

でも、もっとつらそうなのは漫画家の先生方ですよね、あれは世界一過酷なお仕事かもしれません。小学校高学年までは本気で漫画家になってみたいと思っていた時期もありましたので危なかったです。4コマ漫画と、強い大洋ホエールズの漫画をよく描いておりました・・・・よかった、漫画家にならなくて。私には無理そうです。

漫画はですね、ついこの前の1973年ころから「少年ジャンプ」にはまってしまいまして、その後70年代の後半までお世話になりました。「ど根性ガエル」、「トイレット博士」、「侍ジャイアンツ」、「アストロ球団」、「ドーベルマン刑事」、「リングにかけろ」等々、名作が目白押しだった70年代中期のジャンプでしたが、「サーキットの狼」でとどめを刺し、社会現象となった「スーパーカーブーム」が漫画雑誌から生まれてしまいました。ライバル誌の「少年チャンピオン」も手塚治虫大先生の「ブラックジャック」や「ドカベン」、「750ライダー」、「エコエコアザラク」そしてムーンアイズヘルパーの中にそっくりさんのいる伝説のギャグ漫画「がきデカ」があり、こちらも黄金時代を迎えておりました。この頃は毎週ジャンプとチャンピオン両方読むのが大変でした。

そんな頃、少年ジャンプの新人賞を獲った「鴨川つばめ」という漫画家がおりました。変わった名前だったので作品よりも名前の方が印象的でした。

福岡県大牟田市出身の鴨川先生はバロン吉元先生のアシスタントを務めた後独立しました。アシスタント時代から技術にすぐれ、その時点ですでに漫画家として完成されていた存在だったようです。その後、読み切りをジャンプで数作書いたあと、なぜか突然少年チャンピオンに移って新連載漫画を描き始めました。名前ですぐわかりました。

これが1977年にスタートした衝撃のギャグ漫画「マカロニほうれん荘」で、当時中学一年生の私は「こんな漫画見たことない!!凄い、凄過ぎる」と感動し、大爆笑しておりました。今も変態Wildmanが認める唯一の天才漫画家であります。分からない人には何を言ってるのかさっぱり分からないと思われますが、勝手に言わせてもらいます・・・

落第高校生の「膝方歳三 ひざかたとしぞう 25歳 通称トシちゃん」、「金藤日陽 きんどうにちよう 40歳 通称きんどーちゃん」の二人と新入生の「沖田総司 おきたそうじ 16歳 通称そうじ」という新撰組のパロディの名を持つ三人のキャラクターが、下宿先のマカロニほうれん荘というアパートで無茶苦茶なストーリーを繰り広げる物語なのですが、あまりにも無茶苦茶過ぎてストーリーはとてもじゃないけど説明出来ません・・・・・

それまでのギャグ漫画の手法になかったスピード感やリアルな描写、唐突に場面が変わって理解不能な世界に突入する作風は、全く新しいスタイルの作品で、当時のおじさまたちは「この漫画は何が面白いのかさっぱりわからない」と評しておりましたが、それほど全てがぶっ飛んでいた作品なのです。絵のセンスも素晴らしく、時代背景の表現も見事で、私はアートとしてこの漫画をとらえておりました。

突然第二次世界大戦のお話になったかと思えばKISSやレッド・ツェッペリン、エアロスミス、矢沢の永ちゃんまでが登場し、鴨川先生はロックに深い造詣があった事も伺えます。車のイラストも車種選択が秀逸でした。

若干二十歳の鴨川先生が描きあげたマカロニほうれん荘は、爆発的な大ヒット作となり、少年チャンピオンの発行部数を伸ばす原動力となって単行本も売れまくりました。

天才漫画家として認められた鴨川つばめ先生は、週刊誌で5本!!!という人間離れした仕事を抱え込む大人気漫画家となって70年代を駆け抜け、一時はギャグ漫画家の頂点に立っておりました。

が、天才ゆえに光っていた部分とは裏腹に、影の部分も多く出始めました。アシスタントも使わず、週刊連載漫画を黙々と描き続け、一切の妥協を許さないで仕上げるスタイルは長く保てるわけがありません・・・・理想を追い求め過ぎて徹夜作業も当たり前となり、食事もまともにとらず描きまくった先生は心身共に疲れ果て、頼んでも連載をやめさせてくれない編集に抗議する形で、最後はマジックインキで適当に描きなぐって、無理やり連載終了という形になり、1979年にマカロニの幕は降りてしまいました。

単行本にして全9巻分です。

唐突な幕切れとなった漫画と共に鴨川つばめ先生は70年代漫画界の伝説となってしまいました。

何度かの小さなカムバックもありましたが、結局最後は消息不明となって全ての接触を断ってしまいました。

その後、先生は皿洗いやソー○ランドの従業員までこなしたそうですが、90年代に消息が分かっても漫画に対する一切のインタビューや接触を断っているそうです。アニメ化や単行本未掲載作品の出版の話があってもすべてNGだということです・・・・天才は徹底しております、変態とはわけが違います。

現在、仙人のような風貌で仙人のような生活を送っている先生は、マカロニ連載最後期の筆を折ってマジックで描きなぐった手抜きの時期の事を今でも後悔し、ずっと罪の意識を持っているようです。

そんなことは気にせずにぜひとももう一度ペンを握って、切れ味鋭い閃光のようなあのギャグ漫画を描いて欲しい物です。

鴨川つばめ先生のファンは沢山います、ぜひとも天才の大復活を変態は望んでおります!!! 最高だぜ、マカロニほうれん荘!!

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我、力道山先生の幻をドイツにて発見せり!!

ワールドカップも一段落した所で、突然我が家のエアコンがお亡くなりになられ、 猛烈な湿度の中で暮らす日々が続いております・・・・ 扇風機だけではどうにもならず、冷えたペットボトルをまくら代わりに 使う変態の今日この頃であります・・・6匹の猫と1匹の犬たちも変態だ!じゃなくて大変だ!! と思ってたら意外とあいつら暑さを気にしてません・・・

で、先週からのお話の続きなのでありますが、ヨーロッパ・ツアーの 詳しいレポートは「ムーンアイズ・メールマガジンMMM」にて発表となっておりますので そちらをご覧くださいね。 え、見れない?? そうなの??じゃ今回は特別に見せてあげますからこちらをクリックして下さい。 というよりも一刻も早くMMMに登録してくださいな!!

で、ドイツの博物館なのですが、これが結構楽しくて千差万別いろんなクルマが展示されておりました。 このランボルギーニ・ミウラP400Sはホワイトレターのグッドイヤーがとっても素敵でありました。

こんな可愛いゴッゴモビルやNSUスポーツ・プリンツなんかもあって変態向けの車種選択がたまりませんな!! あんまり嬉しいので我が家の当時物ミニカーの画像も並べておきますね。

おおっ!!これは西ドイツのDKW(デーカーヴェー)ゾンデルクラッセではありませぬか!! 2ストローク好きにはこたえられないクルマです。

エンブレムに注目であります。このクルマには「3=6」不思議なエンブレムが ついているのです、3イコール6です・・・ 変態のアナタならこのエンブレムの意味が分かりますよね。このクルマは 2ストローク3気筒エンジンを 搭載しているのです、カワサキマッハIIIじゃないよ!! DKWの2ストエンジンに対する自信の表れを 示すもので、3イコール6の意味は「2ストローク3気筒は4ストローク6気筒に匹敵する性能を持つ」

というナゾナゾのような意味を表しているのです。間違えた算数ではありません。 カッコイイなDKW、こりゃマッハIIIもビックリだぜ!!

何て興奮しながら、誰も聞いてないのに一人でブツブツと説明しながら 博物館内をトボトボと歩いていると、アメリカ車コーナーにたどり着きました。

シェビーやダッジやキャデ等、日本でもアメリカでも見なれた大きなクルマたちを眺めていると、 いきなりブルーのクルマが目の前に現れました。 「こ、こ、こ、これはスゲエ、こんなのまでここにあったとは!!」とひっくり返りそうになりましたが、 気を持ち直すと力道山先生の姿が浮かんできたのです・・・・

そのブルーの車は「1957-58キャデラック・エルドラド・ブロアム」なのであります。 「な〜んだ、ただの50年代のキャデラックじゃん」といわれるアナタはダメダメです。 このブロアムはとっても特別なキャデなのです。

夢の1950年代、かのGMは「モトラマ・シリーズ」というのを展開していてワンオフのドリームカーをシェビーや ポンティアックやキャデラックやらGMの各ディビジョンごとに製作させ、編隊を組み全米各地をデモしていたのです。

これらのドリームカーはどれも時代を先行するデザインで、それを一般 ユーザーに見せて反応をリサーチし、数年後の量産車にそのデザインや メカを取り入れるという目的を持っていました。そんな中であのテール・フィンのデザインなんかが生まれました。

キャデラックがモトラマ用で1955年に製作したエキスペリメンタルカーがこの 画像のエルドラド・ブロアムなのです。

それをほぼそのままの形で限定生産して販売したのが’57-’58エルドラドブロアムです。 今回ドイツの博物館で遭遇したブルーの個体がまさにそれでした。 他のキャデラックとは別工程で生産され製造、仕上げ、検査とほぼ全ての 工程が熟練工の手によるほぼ手作りの自動車だったのです。 他のグレードではオプションとなる装備全てが最初から標準で組み込まれていました。

車輛金額は13,074ドルで、これは当時の普通のキャデラック4ドア・セダン の4,413ドルに対し3倍の金額を付けていたのでした!!いかに凄いかが分かりますよね。 生産台数も2年でたったの704台と、アメリカ車にしては異様なまでに少ない特別なクルマなのです。 低くたたずむ観音開きの4ドアHTボディは、ルーフがステンレスのヘアライン仕様になってるお洒落さんなのでした。

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