Wildman 名前の由来

1990年、Pinstriperとなって1年が経った頃、初めてアメリカを訪れユタ州のEd Rothの元へ行く事になりました。1989年の日本の3rd. Annual Mooneyes Street Car NationalsでRoth本人に会ってそのパフォーマンスをライブで見て感動し、Pro Pinstriperになる事を決意しましたが、今度はアメリカで再会し新たにRothよりPinstripeについて学びたく思っていました。LAXにてRothと落ち合い、クルマで遠くユタ州の彼の家に向かう訳ですが、狭い室内の彼の愛車Mazda Pick upの助手席に乗ろうとすると、「何、やってんだHiroが運転していってくれよ」ととんでもない一言が!初めて来たアメリカで初めての運転でそんな距離を走らされるとは思ってもいなかったので正直焦りましたが、フラフラとFreewayを走り、朝だか夜だか分らない時間に何とかユタのRoth宅に到着しました。するとそれまで殆ど眠っていたRothが言いました、「いや〜初めてのアメリカでよくこんな所まで運転してきたな!おまえをWildman と呼ぼう!」の一言でRothより"Wildman石井"という名前を命名していただきました。

Here is a story for people who are not familiar about why Pinstriper Mr. Ishii is called "Wildman" Ishii. He was named "Wildman" by ED "Big Daddy" Roth. It was when Mr. Ishii traveled to Utah to be trained as Pinstriper by Ed "Big Daddy" Roth at his home. Ed "Big Daddy" Roth was only expecting Mr.Ishii to drive from airport in Utah but when Ed Roth found out that Mr. Ishii actually drove all the way from LAX airport in California, Ed "Big Daddy" Roth had to say "Oh! You are Wildman!. Let's make your name "Wildman" So his name "Wildman" has been called since then. Good story isn't it.

WILDMAN の作品

派手好きの小心者、ナイトトラック狂想曲

2月のブログにてお話致しましたが、今年はナイキが創立40周年という事でなりふり構わず?懐かしのモデルを復刻しております。 この前はナイキの歴史の中で燦然と輝く欠陥モデル、初のエアソール搭載の「テイルウィンド」が復刻されブログでもご紹介致しましたが、この3月にまさかこれだけは復 刻されまいと勝手に思っていたキラキラとラメが輝く恥ずかしモデル「ナイトトラック」が出てしまいました、ウソみたい・・・ 1978年に発売されたこのモデルは、ついこの前の1980年頃、雑誌ポパイでディスコでのダンス用スニーカー「ナイキ・ディスコ」と紹介されていたのを 見て「これ、欲しい!ああ憧れのMade in USAだし、絶対に欲しい、これ を履いてディスコに行くのだ!!」と夢見た高校生でありましたが、並行輸入品であった 為、高価だし品薄で当時は手に入れる事は出来ませんでした。

当時原付スクーターのスズキ・ラブのCMにまだ元気だったマイケル・ジャクソンがこのナイトトラックを履いて出演していたので、そっちの方の話題で有名になったスニーカーでもあります。マイケルが履いてるとちっとも派手に見えませんでしたね。

その後あっという間に21世紀となり、やっとUSED品が手元にやって来ましたがラメラメ仕様のこの靴はとってもデリケートでして経年変化も激しく、履いたらバラバラになってしまうのではと思い観賞用として楽しんでおりました。

そして今回目出度く奇跡の復刻販売となったのでありますが、海外と比べ日本での正規発売は多少遅れていました。「まあ正規輸入販売される事だし、話題性もあるし、いっぱい輸入されて日本中にマ イケル・ジャクソンが出現するのでしょうな、みんなでいっしょにムーン・ウォークだぜ!!」と勝手に思っていたら、とんでもないくらいの少ない数が、限られた店舗で超限定販売のような形でひっそりと販売されてしまいました。 そしてあっという間の完売・・・青山のお洒落なクラブなんかで売らないで下さいよ、こっちはディスコにしか行った事ないんだからさ・・・

マニアの皆様はひっかきまわされた感のある今回の復刻劇でありましたが、モデル自体はなかなかの出来でして、細かいことは抜きにして意味不明ギンギラシューズのナイトトラックのイメージは上手く再現されています。 形はオリジナルよりちょっとぽってり気味ですが、アウトソールのラメ(フレー ク)の入り方はオリジナル以上にギンギラでカッコいいです。

反対にスウォッシュ・ラインはオリジナルの方がギラギラと光っています。

気にな るのはこのラインの上部がこの様に縫い付けられていて少し隠れてしまってるのが変といえば変ですね。

私のオリジナルはこんな感じなので、復刻生産時に参考とした物がこのようになっていたのでめんどくさいからそのままそれを再現してしまったのでしょう か??

オリジナルは当時とっても高価な、ああ憧れのMade in USAでありましたが、今回のはベトナム生 産になります。なのでアメリカ製だった30年前当時よりずっと安い価格になりましたね。 おかげさまで心おきなくナイトトラックを履いてディスコ繰り出せるぜ!!と変な クツを抱えて部屋で小心者は妄想にふけっております・・・ 変なクツといえば昔のナイキはへんてこりんスニーカーを沢山作っておりました。

こちらは1982年発売の”Sierra”シエラというモデルですが虹色カラー のストライプは受け狙いとしか思えません。その受け狙いに見事にはまってしまい、二足持っている内の一足目は82年に「元町アスリートフット」で購入しましたが、学校に履いて行ったら結構笑われました、やっぱり受けたぜ!! 当時はこれがレディース・モデルだったとは知らず「何でいつもより2インチも大 きいのを買ってしまったのだろう、お店の中で突然足がデカくなったのか??」と小心 者は悩んでい ました。

こちらは1983年発売の廉価版シューズSierra Caribu”シエラ・カリブ”でして、ストライプはホログラム仕様となっていて、見る角度によって色が変わるというオマケのシー ルみたいなのです。エア・ジョーダン以前は冗談みたいなのばっかり作っていたのですね、ああ恥ずかしい・・・

そして最後は全くついこの前のロスアンゼルス・オリンピックの年、1984年か ら作られたどう履きこなしてよいのかさっぱりわからない”Terra Rainbow”テ ラ・レインボーというレインボー マンも真っ青の変態カラーモデルです。

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「オートバイのレーサーになりたい」人生はいつもタイムスリップだぜ!!

今年の初めにですね、実家に帰った時「回覧板にこんなのが載ってたからコピーしといたよ」と何やらプリントされた紙を渡されました。

それを見た瞬間「うおお~!こ、これは!!」と叫びながら頭の中は全くついこの前である昭和47年にタイムスリップしてしまいました、人生いつもスリップしてますが・・・

こちらが問題の回覧板コピーになります。

「ついこの前の昭和35年4月2日~昭和41年4月1日の間に生まれた岡村小学校出身の皆さん! 40年前のタイムカプセルを発掘しました!」と書かれているではありませんか!

「ついにこの時がやって来たぜ、あの日以来ずっと忘れることなく、いつになったら掘り起こしてくれるのだろう」と思い続けていたタイムカプセルが、たった40年の時を超えて御開帳となるのです。

横浜市立岡村小学校創立50周年記念のイベントの一つとして、創立10周年の昭和47年に埋めたタイムカプセルをいよいよ開ける時がやって来たのです。

当時プールの手前に日時計を設置し、その中に埋めた事は5年くらい前の記憶のように覚えておりました。

1977年KISS初来日の年に卒業して以来、3回くらい小学校に行った事が有りましたが、日時計はひっそりと佇んだままかなりボロくなっていて「一体いつ開けるんだ、俺はタイムカプセルの事を覚えてるぜ」と一人抗議しておりました。

「ひょっとしてそんなこと当時の先生はじめ皆さん忘れちゃってるのかしら?? だとしたら重機を持ってきて勝手に開けてしまうのもいいかもしれんな」とこの40年ずっと考えておりました。

でも忘れていなかったようで、この度やっと掘り返され昭和47年以来40年ぶりに私の初期アート作品を拝めることになりました、当時私は小学校2年生でありました。

 

この木造校舎が写るモノクロ写真が日時計(タイムカプセル)を設置した日の式典であります。このころ私はタカラの「変身サイボーグ1号」に熱中しておりました、まだ持ってますけど・・・

   

昨年の夏に「日時計の下にタイムカプセルがあるという言い伝えのもと掘ってみましたが」と発掘工事を行い日時計周辺より沢山のガラス瓶が出て来ました。

 

しかし、40年の歳月は想像以上に厳しい環境だったようで、埋まっていた場所により経年変化の差が激しく、この様に瓶の中で風化してしまった物も多々あったようです。 ああ、悲しいぜ・・・・・

そして掘り返された品々は「タイムカプセル発掘披露会」としてこの3月に公開されました。久しぶりに我が母校へ向かう事となり緊張しましたが、6年間通い続けた「名物の100段階段」を登る気力も体力もなかったのでこちら学校裏の「桜道」からトボトボと上がって行きました。

  「ゆず」のジャケットや「桜道」っていう曲に出て来るところですな。

     

そして岡村小学校にたどり着きましたが、こちら昭和46年の入学式も全くついこの前の事なので、懐かしさをあまり感じない変態が校門をくぐりぬけ、校舎に侵入致しました。

     

ついでに最期の教室となった6年4組に行ってみましたが、少子化のせいか図工室になってました。ちなみにこのクラスではミスター女子プロレス「神取忍」が隣の席で有りました、ああ怖い。1976年、家庭科の時間に一緒にご飯を炊いたのう・・・・

そしていよいよ校舎2階の会場に到着となりましたた、何だか緊張して来たぜ。 中に入ると発掘された品々が展示されてましたが、思っていたよりも数が少なくて、やはり長い年月で風化してしまったものが沢山あったと思われます。

  

こちらはカプセルに入っていた当時の名札やチョーク、仮面ライダーカード、電車の切符などになります。残念ながら当時物ミニカーは入っていません、入れときゃよかった。

 

これはついこの前の昭和47年12月の給食メニューであります。 火曜日は今では絶対に出ない「鯨肉」となっております、食べたいな・・・

    

この様に各クラスごとに寄せ書きや自分への手紙があって展示されているのですが、程度の良いものが少ないのです、40年の歳月は結構厳しいものが有りましたね。 ミニカーを40年くらい保存するのは簡単なのに・・・・

   

なかなか自分の物が見つからず「ヤバい、もしかして俺のも風化してしまったのか??」といつもの小心者モードに突入しそうになり、最後の展示パネルに目をやるとそこには「なかなか取り出すことができなかった最期のカプセルから出てきました・・・!!」という素晴らしいキャプションのもとに、変色無しの極上の保存状態で我が2年3組の物が誇らしげに展示されておりました、ああよかった!! 「さすが俺だぜ、ミニカー同様箱付き傷無しが人生のモットーなのさ!!」と教室内で叫ぶと、受付にいた先生の冷たい視線が有りました。

   

そこにはクラスメートの素敵な一筆がイラストとともに書かれておりました。 「けいさつになりたい」「たくしーのうんてんしゅになりたい」と一般的なものから「ぺんきやになりたい」といった職人気質なもの、さらには未来を見据えていたとしか思えない「サッカーのプロになりたい」というのまでありました。 だって当時はプロ野球「王、長嶋」の全盛期でプロサッカーなんて考えられない時代でしたから・・・・ そしてWildman初期作品もちゃんと残っておりました。図画工作には絶対の自信が有り、サイクロン号の絵を描くのはクラスで一番上手いと自負していたのでそれは素晴らしい作品であるに違いありません。

これがその作品になります、どうです素晴らしいでしょう、バイクのイラストも完璧ですな!! えっ、2年生のくせに絵も文字もヘタだって、色も付いてないしホント下手クソですね・・・・

でもね何でこんなに下手なのかっていうのにはちゃんと理由が有るのです。 これは左手で描いたのですよ、左手で・・・・ なぜかと言うとですねついこの前の昭和47年の秋、私は昼休みに校庭の遊具である雲悌(うんてい)で遊んでいたのです、ぶら下がってあそぶやつですな。

チビだったのでああいうのは得意でして、いい気になって遊んでると休憩終了のチャイムが鳴り、一番高いところにぶら下がってるのにあわてて戻ろうとしたら手が滑ってしまい腕から地面にたたきつけられてしまったのでした。 ああ痛いと思い立ち上がると右腕に未体験ゾーンの激痛が走りました。 「イタイ、まじ痛い」と友達に救助を求めましたが、一瞬のうちに右ひじ周辺が腫れ上がりその場でダウンとなり立つ事が出来ませんでした。

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力道山を巡るWildmanの体験 Part II

昨年末の産経新聞に3回にわたって力道山夫人の「田中敬子」様による力道山先生の回想録が3回に渡って連載されておりました。

 

すでに御自身の著書等で紹介されている話が多いですが、没後50年近く経ってもこういった形で話題になるというのはさすが力道山先生であります。 Wildman的には早いとこ敬子夫人との対談を行い、当ブログにて連載を行わなければなりませぬ・・・今年の目標であります!!

で、先週からのお話の続きでありますが、ついこの前の昭和29年に柔道の鬼、木村政彦七段からプロレスは八百長扱いされ挑戦を受けた元関脇力道山先生はそれを受けて立ち、現代で言うところの異種格闘技戦となり「柔道が勝つか相撲が勝つか」とマスコミも煽り立て、世間は全盛期のK-1も及ばない様な盛り上がりをみせていました。しかしナゼそこに私がいないのだろう・・・

試合の調印式は15年くらい前としか感じられない昭和29年11月27日に鎌倉の松竹大船撮影所にて行われました。 何でそんな所でと言えば、ちょうどそのころ力道山先生は映画の撮影中だったのであります、人気者はとても忙しいのですな。

素敵なジャケットを羽織ってキャデラックのコンバーチブルに乗り颯爽とやって来た力道山先生、対して木村七段は地味な背広にネクタイで湘南電車に乗って到着となりました。 この時点ですでに二人はあまりにも対照的で、その後の流れを暗示していたかのようです・・・・

 

柔道が勝つか、プロレスが勝つか「巌流島の決闘」と呼ばれたこの試合はまさに生きるか死ぬかで、負けた方の人気は果てしなく下がる事は誰にでも予想出来ました。 実は事前に二人の打ち合わせが有り、最初は引き分けで次はこっちが勝ってその次はそっちが勝つ、その流れで興行を続けてビッグビジネスだぜ!!という話も有ったと言われていますが、お二人共鬼籍に入ってしまった現在では真相は闇の中なのであります・・・・・・・

こうして初の日本選手権試合は14年くらい前としか思えない昭和29年12月22日に東京は蔵前国技館にて1万5000人の大観衆を集め開催されました。 当然プラチナチケットとなりましたが、まだヤフオクもないので購入はさぞ大変だった事でしょう。しかしナゼそこに私がいないのだろう・・・・

前座を含む他の試合が全て終わった後、テレビとラジオで全国中継のメーンイベント61分3本勝負「力道山対木村政彦」は夜の9時19分にゴングが鳴りました。 返す返すもナゼそこに私がいなかったのだろう・・・

試合はクリーンなファイトで始まり、お互いの技を出し合い意外と静かな流れで進んでいました。 事前の話し合いが有ったとすれば、このままやったりやられたりで引き分けで終わっていたはずでした。 しかし力道山先生はその話が有ろうとなかろうと、この試合には負けるわけに行かないと考えていたと思われます。 対して木村七段はあくまでこの試合はビジネスと割り切り、引き分けを考えて試合に挑み結局「鬼の木村」にはなり切れなかったのでなないでしょうか・・・

15分が経過した頃、キックを放った木村七段のつま先が力道山先生の急所に当たり試合の流れは一変しました。 急所キックを「反則」とみなした先生は突然形相が変わり「試合」から「ケンカ」に変わってしまい、張り手と反則のはずの空手チョップの応酬で無茶苦茶なケンカ攻撃を仕掛け、逆に反則をアピールする木村七段を殴り倒してしまいました。血だらけでマットに横たわる木村七段は15分49秒でKO負けを喫してしまいました。

 

2本目はあまりのダメージで木村七段は戦意喪失となり、ドクターストップの様な形で試合終了、これにより力道山先生は初の全日本選手権チャンピオンとなったのでした。

 

You Tubeでこの試合の映像は見れますが、木村七段の力道山先生の急所へのキックは、試合の流れの中で「なんとなくつま先が触れただけ」のようにも見えるのです。 しかし、ビジネスマン力道山先生はこれは相手を問答無用でぶっ殺すチャンスととらえ、反則攻撃に対する報復として一気に試合を決めてしまおうと思ったのかも知れません・・・

事前の申し入れが有り「ビジネスとしての引き分け」を想定していた木村七段には信じがたい敗北の結末となりました。 これに対し引き分けの申し入れが有ったとしても「絶対に負ける訳には行かない」と考えていた力道山先生は逆にこの試合を「ビジネスとしての勝負」と考え今後の流れをつかむ為の重要な局面ととらえていたのでしょう。

その差が出てしまった試合となり、その後力道山先生はプロレスを発展させ、ビジネスマンとしても活躍し、隆盛を極め一つの時代を作ったスーパースターとなりました。

対して木村七段はその後も自分のプロレス団体で活動したり、海外に活躍の場を求めたりしましたが、結局力道山戦での敗北が決定的に悪いイメージを作ってしまい、プロレスの世界からはフェードアウトし柔道の指導者としての道を歩みました。 戦前戦後を通じて柔道のスターだった木村七段の名は一気に光を失い、表舞台から消えてしまいました。

もし、その後本当に真剣勝負で力道山先生と再試合をやっていたら、結果はどう転んだかは分かりません。 だって柔道の寝技を駆使されたりしたら、力道山先生もひとたまりもなかったかもしれません・・・・それほど強かった「鬼の木村」なのですから。

13年くらい前としか思えない昭和30年2月10日に二人はあの試合についてこの様な笑顔で和解してしまい、二人が対戦する事は二度となかったのです。 歴史は全て闇に中に消えてしまったのでした・・・

しかし力道山先生は数年後、絶頂の中で若くして命を落としてしまいましたが、木村七段は柔道の指導者として長くご活躍され、とっても長生きされました。

どちらが良かったとかどちらが勝ったとは言えませんが、個性あふれるライバル二人が日本の格闘技界で壮絶な戦いを繰り広げていた、古き良き時代の物語でございました。 どう考えても全くついこの前の出来事なのですが・・・

ライバルといえばその昔、日産セドリックとプリンスグロリアはライバル同士でした。 しかしその後プリンスが日産と合併してしまい、ライバルどころか兄弟車種となってしまい「セドグロ」と呼ばれて和解してしまい巌流島の決闘にはなりませんでした。

  

こちらは青島文化教材社の1/24プラモのセドグロなのですが、素人モデラーの方が組み上げ、Studioにお持ち込み頂きました。 そしてWildmanがFreehand Pinstripeを施し目出度く完成となったのであります。

  

ブルーのモデルのフレームスは、全て筆描きにより仕上げました。グラデーションは点描となっております、ああ大変だ・・・

しかしこちらの魔法の筆、Kazan […]

力道山を巡るWildmanの体験 Part I

今日、横浜は猛烈な寒さになっておりましてPinstripeどころではないのですが、私は寒さを感じない北極グマのような体質に変化してしまったので、黙々とGarage内で作業を続けております。全然平気なのであります!!

皆様はコタツにでも入りながらネットサーフィンをし、このブログをご覧になっていることでしょう・・・・ で、この程PinstripeのTools(1-Shot Paintやブラシ)に関するWildman主演の動画をチョロっとアップしてみましたので、こちらよりご覧になって下さいませ。

前回、めでたく2QQ回目を迎えました我がWをildman’s Blogでありますが、改めて自分で読み直してみますと、初期のささやかな始まり方?から一気に暴走モードに突入し、世捨て人振りを発揮致しますと、正常な神経の方には何を言っているのかさっぱり分からないブログになってしまいました・・・・

ピンストライプや車、バイクの話を中心にして行こうかと思っていたはずなのですが、ミニカーやナイキ、KISSが登場してしまうと歯止めが利かなくなり、しまいには小田急ロマンスカーNSE3100やマカロニほうれん荘まで登場致しまして、もう自分でも収拾がつかなくなってしまい今日に至ったわけであります。

 

そんな中で我が心の師「力道山先生」のレポートも行い、先生思い出の地巡回や池上本門寺へお墓参りにも何度か行って来ました。

 

没後50年近くが経ってしまう力道山先生ですが、平成も24年となった現在でも話題には事欠かなく、最近では遺品である「先生のパスポート」まで売りに出されていて私の様な信者の心を揺らせてくれております。 敬子夫人との世界一周ハネムーン等の渡航記録も記載されているお宝なのです。

お値段たったの¥3,000,000(税込)正真正銘力道山先生最後のパスポートなので、とってもお安く感じます。ローンを組んでこれを買ってしまえば、アメリカ出張の際も力道山先生を名乗って堂々と入国出来るわけなのであります、ああ嬉しいな!!

それはともかく、いまだに先生に関する本は何らかの形で出版されていてそのスーパースター振りが発揮されています。

 

去年はこちらの「力道山をめぐる体験」なる本が出ましたが、ちょっと内容が難しく、さらっと読む類の本ではありませんが「プロレスから見るメディアと社会」というサブタイトル通り社会的な関知から先生の御活躍をとらえております、何だか難しいな・・・ でも本の中で使われている写真は何と我がWildman’s Blogからの抜粋でありましてビックリ致しました。どうぞ皆様もお買い求めくださいませ。

そしてこちらの一冊は厚さ4センチ、700ページに及ぶとっても重たい本で、タイトルもとっても重たい「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」という力道山崇拝者にとってはあまりにも意味深なタイトルの本であります。 これまではプロレスラー力道山側から見た二人の関係を書いた本ばかりが目立っていましたが、こちらは柔道家木村からの視点で歴史を探っています。

木村政彦という柔道家は戦前から活躍した15年不敗、13年連続日本一、天覧試合制覇というとんでもない強さを誇った不世出の柔道家でして「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」とまでいわれた強烈なお方でありました。 その後プロ柔道を立ち上げて講道館を破門となり、プロ柔道興行が失敗してからは海外に渡り、ブラジルではあのエリオ・グレイシーをあっさり破ったり、アメリカでプロレスを始めたりと、力道山先生より格闘家としては早い段階で世界で活躍されていました、本当に強かった様です。

そして昭和29年日本でのプロレス興行立ち上げ時に力道山先生とタッグを組んでシャープ兄弟に挑戦し、街頭テレビとの組み合わせで日本中でプロレスブームが起こりました。 この時に国民的ヒーローとなったのは力道山先生で、木村さんの方はいつも「負け役」に回された感があり、柔道日本一の肩書が崩れ始めてしまいました。

こうなると御本人も黙ってはいられなかったようで下がってくる自分の株を取り戻す為に力道山に挑戦するという形をとりました。 これがプロレス巌流島対決「柔道が勝つか相撲が勝つか」と言われた日本選手権試合となり後々まで語り継がれる試合となりました。

「これまでは負け役に回されただけ、力道山のプロレスは八百長、真剣勝負なら絶対に負けない」と啖呵を切った所はさすが「柔道の鬼、木村」であります。

この時の世間の盛り上がりは半端ではなく、NHKはラジオ放送、日テレがTV放送を行うこととなり、朝日、毎日、読売の大新聞までこぞって煽り立てるといった現在の格闘技からは考えられない様なマスコミの扱いでした時代ですね。

沢山のお金も絡むこの一戦、話が終わらないのでPart IIに続きます。

で、この程2011年に開催された20回目のYokohama Hot Rod Custom ShowのDVDが発売となりました!! 20回目の記念イベントとなった為、エントラントの気合の入れ方も半端でなく、車、バイク共に物凄いクオリティーで登場しております。 横浜の街を疾走する外国人ゲストや、アメリカでの撮影映像も多数含まれており、搬入や搬出時の様子、アフターパーティーの模様も入っていてその場にいるような気分にさせてくれます。 イベントに来られた方も、そうでない方も必見の面白DVDですよ!!

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祝 2QQ回記念!! これからも宜しくお願い致します。

先日Mooneyesの大変古いお客様であるモデラーのN様が、この様に素晴らしいモデルをArea-1に持ち込んで頂きました。

見ての通りあの”Moonbeam”号をスクラッチで製作した驚愕の作品で、Ford Station WagonのPush Carと共にDean Moonが200マイルを目指して走った1960年のボンネビルを再現しているジオラマなのです。

モデルとしてベースの無いMoonbeamをイタリアの跳馬スポーツカー・モデルをベースにし驚異のテクニックでスクラッチして見事にMoonbeamを作り上げてしまいました。結局ベースモデルで残っている部分は殆ど無いそうで、一から作ったも同然の様な感じなのです。

 

ワンオフ製作の削り出しMoon Discも本物にしか見えず、なんとビスまでが再現されていて、その質感は凄すぎてスケールモデルという事を忘れてしまいそうなのです。

Salt Flatsのスタート地点を再現していますが、もちろんコクピットにはDeanが鎮座し、52年前のBonneville緊張の一瞬が伝わって来るのでした。

このジオラマはN様の御厚意により貸し出して頂き、暫くの間Mooneyes Area-1、一階のショーケースに展示されておりますので、お店にお越しの際はぜひご覧になって下さい、必見であります!!

で、必見といえばWildman’s Blogなのですが、今回をもちまして目出度く終了となります、有難うございました。 じゃなくって、ついに今回で200回目の更新となりました、本当に有難うございます!!!!!

2007年の2月からスタートした当変態ブログも、沢山の皆様のご支援の元、あっという間に5年の歳月が流れましたが、5年ではあまりにも短すぎるのであと50年は続ける様に致します。

そんなこんなで久々に過去のブログを読み直してみると、我ながらあまりにも素晴らし過ぎて、「ブログ100撰」出版のお声が掛からないのが不思議なくらいだと思います(自画自賛は人生のモットーです) 最初は小心者だけにおとなしくささやかに始まりましたが、そのうち暴走状態となり常識をわきまえた方々は徐々に離れて行き、最近では世捨て人と変態だけが閲覧するブログとなったようであります、計画通りなのですが・・・

クルマやピンストライプのお話中心にまとめて行こうと思ったはずなのですが、気づけば勝手な趣味の話ばかりになっていて、収拾がつかない状況になっておりました。

  

200回を記念して初期のブログを振り返ってみますと、スタートとなる2007年2月8日から3回に渡っての連載となった「身の程知らすの個人輸入」ではMooneyes入社前の看板屋時代、22歳で大借金王となり無謀にも’68 Shelby MustangGT350を元町時代のMooneyesを介して個人輸入してしまうというくだりを発表しその世捨て人ぶりを暴露致しました、あの時キミは若かった!?

 

2007年4月4日は「ナゾのデザイン、御所山8デカール」のお話で、Wildmanが17年に渡ってStudioとして使用して来た愛すべき御所山のヒストリーとメモリアルとして作ったDM146「御所山8デカール」を紹介しております。 ちなみにデカールは残り僅かですよ!!

2007年4月20日は「幻の社用車、マツダ3輪トラック”Moon Trike”」ではかつてMooneyes社用車として活躍した「マツダT600」のズッコケ話で、買い物に行った横浜駅の地下駐車場でエンジンが掛からなくなり、地下で押し掛けを敢行し奇異の目で見られながらも駐車場から脱出したり、真冬の首都高速を激走中、突然窓が閉まらなくなったまま東京まで走った事などほほえましい思い出が掲載されております。

 

2007年4月25日から3回に渡って連載した「KISSと共に30年」シリーズでは私の1977年からから始まるKISSへの忠誠心と泥沼化したKISSコレクションの始まりを伝えさせて頂きました。30年なんてあっという間なのです。

  

その後スーパーカーとKISSのお話をまとめ、2007年6月8日は「スーパーカーブーム終わりと変態の誕生」では当時撮ったクルマのモノクロ写真を掲載し皆様を和ませました・・・・

そして2007年6月29日からは3回に渡って連載された(この頃やたらに連載物が多くなる・・・)名ブログの誉れ高き「ああ、憧れのMade in USA」ではついこの前、高校生だった頃、突然スニーカーに目覚め憧れの「アメリカ製ナイキ」を友人のT君と共に手にするまでのお話でした。 メンマ工場でメンマつぶしの必死のアルバイトを行い、高額エリート報酬を得た二人が「ナイキ・バミューダ」というアメリカ製(&台湾製)並行輸入レア・スニーカーを手にするまでの感動ストーリーなのです。 まさかこのブログ発表後、本当にバミューダが復刻販売されるとは思いませんでした。 世の中に凄い影響力のWildman’s Blogなのであります(自画自賛!?)

  

2007年8月3日からは驚異の12回連載となった強烈ブログ「2ストローク3気筒、Wildmanオートバイ物語」を華々しく発表致しました。 世界一カッコいいオートバイ、カワサキマッハシリーズとの出会いから所有、そして消失までのストーリーを8月から10月まで季節が変わる中、長々と話し続けて収拾がつかなくなり、最後は「終わらなければ切腹する」と言い切り何とか終わらせました・・・ 超絶バイク、マッハとの出会いを作ってくれた中学時代の友人?「不良のA君とY君」は今頃どうしているのでしょう・・・・と思っていたら風の便りにI君が亡くなっていたことを知らされました・・・合掌。

そんなこんなで初期Wildman’s Blogを振り返ってみましたが、200回なんて全くの通過点でありまして、今後50年間続ける事を変態の同士である皆様お伝えしておきますので宜しくお願い致します。

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