今年の初めにですね、実家に帰った時「回覧板にこんなのが載ってたからコピーしといたよ」と何やらプリントされた紙を渡されました。
それを見た瞬間「うおお~!こ、これは!!」と叫びながら頭の中は全くついこの前である昭和47年にタイムスリップしてしまいました、人生いつもスリップしてますが・・・
こちらが問題の回覧板コピーになります。
「ついこの前の昭和35年4月2日~昭和41年4月1日の間に生まれた岡村小学校出身の皆さん! 40年前のタイムカプセルを発掘しました!」と書かれているではありませんか!
「ついにこの時がやって来たぜ、あの日以来ずっと忘れることなく、いつになったら掘り起こしてくれるのだろう」と思い続けていたタイムカプセルが、たった40年の時を超えて御開帳となるのです。
横浜市立岡村小学校創立50周年記念のイベントの一つとして、創立10周年の昭和47年に埋めたタイムカプセルをいよいよ開ける時がやって来たのです。
当時プールの手前に日時計を設置し、その中に埋めた事は5年くらい前の記憶のように覚えておりました。
1977年KISS初来日の年に卒業して以来、3回くらい小学校に行った事が有りましたが、日時計はひっそりと佇んだままかなりボロくなっていて「一体いつ開けるんだ、俺はタイムカプセルの事を覚えてるぜ」と一人抗議しておりました。
「ひょっとしてそんなこと当時の先生はじめ皆さん忘れちゃってるのかしら?? だとしたら重機を持ってきて勝手に開けてしまうのもいいかもしれんな」とこの40年ずっと考えておりました。
でも忘れていなかったようで、この度やっと掘り返され昭和47年以来40年ぶりに私の初期アート作品を拝めることになりました、当時私は小学校2年生でありました。
この木造校舎が写るモノクロ写真が日時計(タイムカプセル)を設置した日の式典であります。このころ私はタカラの「変身サイボーグ1号」に熱中しておりました、まだ持ってますけど・・・
昨年の夏に「日時計の下にタイムカプセルがあるという言い伝えのもと掘ってみましたが」と発掘工事を行い日時計周辺より沢山のガラス瓶が出て来ました。
しかし、40年の歳月は想像以上に厳しい環境だったようで、埋まっていた場所により経年変化の差が激しく、この様に瓶の中で風化してしまった物も多々あったようです。 ああ、悲しいぜ・・・・・
そして掘り返された品々は「タイムカプセル発掘披露会」としてこの3月に公開されました。久しぶりに我が母校へ向かう事となり緊張しましたが、6年間通い続けた「名物の100段階段」を登る気力も体力もなかったのでこちら学校裏の「桜道」からトボトボと上がって行きました。
「ゆず」のジャケットや「桜道」っていう曲に出て来るところですな。
そして岡村小学校にたどり着きましたが、こちら昭和46年の入学式も全くついこの前の事なので、懐かしさをあまり感じない変態が校門をくぐりぬけ、校舎に侵入致しました。
ついでに最期の教室となった6年4組に行ってみましたが、少子化のせいか図工室になってました。ちなみにこのクラスではミスター女子プロレス「神取忍」が隣の席で有りました、ああ怖い。1976年、家庭科の時間に一緒にご飯を炊いたのう・・・・
そしていよいよ校舎2階の会場に到着となりましたた、何だか緊張して来たぜ。 中に入ると発掘された品々が展示されてましたが、思っていたよりも数が少なくて、やはり長い年月で風化してしまったものが沢山あったと思われます。
こちらはカプセルに入っていた当時の名札やチョーク、仮面ライダーカード、電車の切符などになります。残念ながら当時物ミニカーは入っていません、入れときゃよかった。
これはついこの前の昭和47年12月の給食メニューであります。 火曜日は今では絶対に出ない「鯨肉」となっております、食べたいな・・・
この様に各クラスごとに寄せ書きや自分への手紙があって展示されているのですが、程度の良いものが少ないのです、40年の歳月は結構厳しいものが有りましたね。 ミニカーを40年くらい保存するのは簡単なのに・・・・
なかなか自分の物が見つからず「ヤバい、もしかして俺のも風化してしまったのか??」といつもの小心者モードに突入しそうになり、最後の展示パネルに目をやるとそこには「なかなか取り出すことができなかった最期のカプセルから出てきました・・・!!」という素晴らしいキャプションのもとに、変色無しの極上の保存状態で我が2年3組の物が誇らしげに展示されておりました、ああよかった!! 「さすが俺だぜ、ミニカー同様箱付き傷無しが人生のモットーなのさ!!」と教室内で叫ぶと、受付にいた先生の冷たい視線が有りました。
そこにはクラスメートの素敵な一筆がイラストとともに書かれておりました。 「けいさつになりたい」「たくしーのうんてんしゅになりたい」と一般的なものから「ぺんきやになりたい」といった職人気質なもの、さらには未来を見据えていたとしか思えない「サッカーのプロになりたい」というのまでありました。 だって当時はプロ野球「王、長嶋」の全盛期でプロサッカーなんて考えられない時代でしたから・・・・ そしてWildman初期作品もちゃんと残っておりました。図画工作には絶対の自信が有り、サイクロン号の絵を描くのはクラスで一番上手いと自負していたのでそれは素晴らしい作品であるに違いありません。
これがその作品になります、どうです素晴らしいでしょう、バイクのイラストも完璧ですな!! えっ、2年生のくせに絵も文字もヘタだって、色も付いてないしホント下手クソですね・・・・
でもね何でこんなに下手なのかっていうのにはちゃんと理由が有るのです。 これは左手で描いたのですよ、左手で・・・・ なぜかと言うとですねついこの前の昭和47年の秋、私は昼休みに校庭の遊具である雲悌(うんてい)で遊んでいたのです、ぶら下がってあそぶやつですな。
チビだったのでああいうのは得意でして、いい気になって遊んでると休憩終了のチャイムが鳴り、一番高いところにぶら下がってるのにあわてて戻ろうとしたら手が滑ってしまい腕から地面にたたきつけられてしまったのでした。 ああ痛いと思い立ち上がると右腕に未体験ゾーンの激痛が走りました。 「イタイ、まじ痛い」と友達に救助を求めましたが、一瞬のうちに右ひじ周辺が腫れ上がりその場でダウンとなり立つ事が出来ませんでした。
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