昨年末の産経新聞に3回にわたって力道山夫人の「田中敬子」様による力道山先生の回想録が3回に渡って連載されておりました。
すでに御自身の著書等で紹介されている話が多いですが、没後50年近く経ってもこういった形で話題になるというのはさすが力道山先生であります。 Wildman的には早いとこ敬子夫人との対談を行い、当ブログにて連載を行わなければなりませぬ・・・今年の目標であります!!
で、先週からのお話の続きでありますが、ついこの前の昭和29年に柔道の鬼、木村政彦七段からプロレスは八百長扱いされ挑戦を受けた元関脇力道山先生はそれを受けて立ち、現代で言うところの異種格闘技戦となり「柔道が勝つか相撲が勝つか」とマスコミも煽り立て、世間は全盛期のK-1も及ばない様な盛り上がりをみせていました。しかしナゼそこに私がいないのだろう・・・
試合の調印式は15年くらい前としか感じられない昭和29年11月27日に鎌倉の松竹大船撮影所にて行われました。 何でそんな所でと言えば、ちょうどそのころ力道山先生は映画の撮影中だったのであります、人気者はとても忙しいのですな。
素敵なジャケットを羽織ってキャデラックのコンバーチブルに乗り颯爽とやって来た力道山先生、対して木村七段は地味な背広にネクタイで湘南電車に乗って到着となりました。 この時点ですでに二人はあまりにも対照的で、その後の流れを暗示していたかのようです・・・・
柔道が勝つか、プロレスが勝つか「巌流島の決闘」と呼ばれたこの試合はまさに生きるか死ぬかで、負けた方の人気は果てしなく下がる事は誰にでも予想出来ました。 実は事前に二人の打ち合わせが有り、最初は引き分けで次はこっちが勝ってその次はそっちが勝つ、その流れで興行を続けてビッグビジネスだぜ!!という話も有ったと言われていますが、お二人共鬼籍に入ってしまった現在では真相は闇の中なのであります・・・・・・・
こうして初の日本選手権試合は14年くらい前としか思えない昭和29年12月22日に東京は蔵前国技館にて1万5000人の大観衆を集め開催されました。 当然プラチナチケットとなりましたが、まだヤフオクもないので購入はさぞ大変だった事でしょう。しかしナゼそこに私がいないのだろう・・・・
前座を含む他の試合が全て終わった後、テレビとラジオで全国中継のメーンイベント61分3本勝負「力道山対木村政彦」は夜の9時19分にゴングが鳴りました。 返す返すもナゼそこに私がいなかったのだろう・・・
試合はクリーンなファイトで始まり、お互いの技を出し合い意外と静かな流れで進んでいました。 事前の話し合いが有ったとすれば、このままやったりやられたりで引き分けで終わっていたはずでした。 しかし力道山先生はその話が有ろうとなかろうと、この試合には負けるわけに行かないと考えていたと思われます。 対して木村七段はあくまでこの試合はビジネスと割り切り、引き分けを考えて試合に挑み結局「鬼の木村」にはなり切れなかったのでなないでしょうか・・・
15分が経過した頃、キックを放った木村七段のつま先が力道山先生の急所に当たり試合の流れは一変しました。 急所キックを「反則」とみなした先生は突然形相が変わり「試合」から「ケンカ」に変わってしまい、張り手と反則のはずの空手チョップの応酬で無茶苦茶なケンカ攻撃を仕掛け、逆に反則をアピールする木村七段を殴り倒してしまいました。血だらけでマットに横たわる木村七段は15分49秒でKO負けを喫してしまいました。
2本目はあまりのダメージで木村七段は戦意喪失となり、ドクターストップの様な形で試合終了、これにより力道山先生は初の全日本選手権チャンピオンとなったのでした。
You Tubeでこの試合の映像は見れますが、木村七段の力道山先生の急所へのキックは、試合の流れの中で「なんとなくつま先が触れただけ」のようにも見えるのです。 しかし、ビジネスマン力道山先生はこれは相手を問答無用でぶっ殺すチャンスととらえ、反則攻撃に対する報復として一気に試合を決めてしまおうと思ったのかも知れません・・・
事前の申し入れが有り「ビジネスとしての引き分け」を想定していた木村七段には信じがたい敗北の結末となりました。 これに対し引き分けの申し入れが有ったとしても「絶対に負ける訳には行かない」と考えていた力道山先生は逆にこの試合を「ビジネスとしての勝負」と考え今後の流れをつかむ為の重要な局面ととらえていたのでしょう。
その差が出てしまった試合となり、その後力道山先生はプロレスを発展させ、ビジネスマンとしても活躍し、隆盛を極め一つの時代を作ったスーパースターとなりました。
対して木村七段はその後も自分のプロレス団体で活動したり、海外に活躍の場を求めたりしましたが、結局力道山戦での敗北が決定的に悪いイメージを作ってしまい、プロレスの世界からはフェードアウトし柔道の指導者としての道を歩みました。 戦前戦後を通じて柔道のスターだった木村七段の名は一気に光を失い、表舞台から消えてしまいました。
もし、その後本当に真剣勝負で力道山先生と再試合をやっていたら、結果はどう転んだかは分かりません。 だって柔道の寝技を駆使されたりしたら、力道山先生もひとたまりもなかったかもしれません・・・・それほど強かった「鬼の木村」なのですから。
13年くらい前としか思えない昭和30年2月10日に二人はあの試合についてこの様な笑顔で和解してしまい、二人が対戦する事は二度となかったのです。 歴史は全て闇に中に消えてしまったのでした・・・
しかし力道山先生は数年後、絶頂の中で若くして命を落としてしまいましたが、木村七段は柔道の指導者として長くご活躍され、とっても長生きされました。
どちらが良かったとかどちらが勝ったとは言えませんが、個性あふれるライバル二人が日本の格闘技界で壮絶な戦いを繰り広げていた、古き良き時代の物語でございました。 どう考えても全くついこの前の出来事なのですが・・・
ライバルといえばその昔、日産セドリックとプリンスグロリアはライバル同士でした。 しかしその後プリンスが日産と合併してしまい、ライバルどころか兄弟車種となってしまい「セドグロ」と呼ばれて和解してしまい巌流島の決闘にはなりませんでした。
こちらは青島文化教材社の1/24プラモのセドグロなのですが、素人モデラーの方が組み上げ、Studioにお持ち込み頂きました。 そしてWildmanがFreehand Pinstripeを施し目出度く完成となったのであります。
ブルーのモデルのフレームスは、全て筆描きにより仕上げました。グラデーションは点描となっております、ああ大変だ・・・
しかしこちらの魔法の筆、Kazan […]
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