Wildman 名前の由来

1990年、Pinstriperとなって1年が経った頃、初めてアメリカを訪れユタ州のEd Rothの元へ行く事になりました。1989年の日本の3rd. Annual Mooneyes Street Car NationalsでRoth本人に会ってそのパフォーマンスをライブで見て感動し、Pro Pinstriperになる事を決意しましたが、今度はアメリカで再会し新たにRothよりPinstripeについて学びたく思っていました。LAXにてRothと落ち合い、クルマで遠くユタ州の彼の家に向かう訳ですが、狭い室内の彼の愛車Mazda Pick upの助手席に乗ろうとすると、「何、やってんだHiroが運転していってくれよ」ととんでもない一言が!初めて来たアメリカで初めての運転でそんな距離を走らされるとは思ってもいなかったので正直焦りましたが、フラフラとFreewayを走り、朝だか夜だか分らない時間に何とかユタのRoth宅に到着しました。するとそれまで殆ど眠っていたRothが言いました、「いや〜初めてのアメリカでよくこんな所まで運転してきたな!おまえをWildman と呼ぼう!」の一言でRothより"Wildman石井"という名前を命名していただきました。

Here is a story for people who are not familiar about why Pinstriper Mr. Ishii is called "Wildman" Ishii. He was named "Wildman" by ED "Big Daddy" Roth. It was when Mr. Ishii traveled to Utah to be trained as Pinstriper by Ed "Big Daddy" Roth at his home. Ed "Big Daddy" Roth was only expecting Mr.Ishii to drive from airport in Utah but when Ed Roth found out that Mr. Ishii actually drove all the way from LAX airport in California, Ed "Big Daddy" Roth had to say "Oh! You are Wildman!. Let's make your name "Wildman" So his name "Wildman" has been called since then. Good story isn't it.

WILDMAN の作品

巨星墜つ、さらばキャロル・シェルビー

先日のYahoo!ニュースでさえトップで伝えていたので、クルマ好きの皆様はすでにご存じだと思いますが、コブラ生みの親「キャロル・シェルビー」がテキサス州ダラスの病院で亡くなりました、享年89歳・・・・・

とても長生きされましたが元々心臓を患っておりまして、2回も!!心臓移植を行い、その都度手術は成功し89歳まで生き抜かれましたね、凄いです。

シェルビーについてはあまりにも偉大過ぎて、私の様な若輩者が語れるような立場ではありませんが、夢の60年代に夢の様なクルマたちをお造りに夢の様な活動をされて来ました。 何と言っても名前がカッコイイ!! 「キャロル・シェルビー」という響きは日本人にとってもカッコ良く感じる物だと思います。これがキャロル・チャップリンやフランクリン・シェルビーじゃここまでの名声は得られなかったと思います、本当に。

アメリカ人レーサーながらF-1を走り、スポーツカーレースではアストンマーチンを駆って59年のル・マン24時間で優勝、その後心臓疾患でレーサーを引退してからはとっても速いクルマ造りやレース活動でその名を世界中に知らしめました。

 

英国製の軽量スポーツカー、ACのシャシーに米国製フォードV8エンジンを押しこみ、世界中の誰もが(アメリカ車嫌いさんたちも)憧れた凶暴スポーツカー「ACコブラ」はあまりにも有名ですよね。

1962年当時シェルビー・アメリカンはSanta Fe SpringsのMoon Equipment内にありコブラの一号車は現Mooneyes USAのFactory内で作られたという事実は語り継がれる伝説の一つです。 私もアメリカ出張時にはその場所に立ち、最敬礼してしまうのです・・・

コブラ開発後はフェラーリ買収に失敗してル・マン制覇に向けやっきになっていた大フォードより「フォードGT40」のプロジェクトを一任されてその才能をいかんなく発揮し、’66年から’69年までル・マン4連覇を成し遂げその時点で歴史に残る伝説的な人物となりました。 フォードとの結びつきは強く、当時バカ売れ大人気となっていたマスタングのハイ・パフォーマンスバージョンとして自らの名を冠した「シェルビー・マスタングGT350 & GT500」を作り上げ、高性能なフォードのイメージリーダーになりました。

あのトヨタ2000GTもアメリカのSCCAレースで走らせ「シェルビー2000GT」も有名であります(これの実車をトヨタは酷いモディファイをしてしまいましたが・・・・)

フォードと別れた後はクライスラーと組んでダッジのモディファイを手掛け、’90年代にはバイパーも生まれましたね。 その後フォードと復縁し?シェルビー・バージョンのマスタングが復活したりして、年老いても精力的な活動をされておりました。

 

Wildmanにとってのシェルビーはやっぱりマスタングなのです、しかも’68年型・・・ その後’66年型を所有したり、ラッキーな出会いによりオリジナルの427コブラを御所山周辺で運転させて頂いた事よりも強烈な思い出は’68年型GT350になるのです。

 

当ブログの記念すべき第1回~3回に渡って長々とお話しましたが、22歳の何も分からない身の程知らずが、偶然の出会いにより身分不相応ともいえる’68年型のシェルビー・マスタングGT350を手に入れてしまったのはついこの前の’86年のことでした、今思えば当時たったの18年落ちだったのですね、本人も22年落ちだし・・・

それ以前に中学生の頃、近所のK様邸にこのグリーンの’68年型GT350が止まっていて通学時にウットリ見とれていたのが初の実車シェルビー体験でした。

  

さらにそれ以前小学生の頃、ミニカーをコレクションとして認識する前からずっと手元にあったのがこのオモチャ、バンダイの「電池で走るミニミニカー、シェルビームスタング」なのであります!! やっぱマスタングじゃなくってムスタングですよね、日本人は。

1/45程度のスケールでプラスチック・ボディーなのですが2本の単5電池によりモーター走行が出来るという物なのです。 やたらディテールが良くってシェルビーの特徴であるエアスクープ類やコブラのエンブレムまで再現され、片側だけの四角いドアミラーは実車を彷彿させ、自分の車に同じミラーが付いてた時はそれだけで感動致しました・・・・

もちろんワンオーナーでずっと持っているモデルなのですが、シェルビーに関しても実車より先にミニカーでその存在を知ったクルマの一台なのでした。 やっぱりクルマはミニカーで勉強するのです、これぞシェルビーなのです。

   

後年こちら箱入りのデッドストックも入手しましたが、この様に世界の切手がもれなく付いてるのです。40年近く前の電池は果たして使えるのでしょうか??

   

さらにこちら警視庁パトロールカー仕様GT500という恐ろしいバリエーションもあるのですが、7リッター428エンジン搭載のドアミラーなパトカーがホントに実在してたらさぞや素敵なパトロールが出来た事でしょう・・・・ちなみに切手は入っていません。

また話が訳分からなくなってきましたが、とにかく偉大なるカーガイ、キャロル・シェルビーは天に旅立ってしまいましたが、沢山の素晴らしいクルマや思い出を私たちに残してくれました、誠に有難うございます!!

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力道山を巡るWildmanの体験 Part II

昨年末の産経新聞に3回にわたって力道山夫人の「田中敬子」様による力道山先生の回想録が3回に渡って連載されておりました。

 

すでに御自身の著書等で紹介されている話が多いですが、没後50年近く経ってもこういった形で話題になるというのはさすが力道山先生であります。 Wildman的には早いとこ敬子夫人との対談を行い、当ブログにて連載を行わなければなりませぬ・・・今年の目標であります!!

で、先週からのお話の続きでありますが、ついこの前の昭和29年に柔道の鬼、木村政彦七段からプロレスは八百長扱いされ挑戦を受けた元関脇力道山先生はそれを受けて立ち、現代で言うところの異種格闘技戦となり「柔道が勝つか相撲が勝つか」とマスコミも煽り立て、世間は全盛期のK-1も及ばない様な盛り上がりをみせていました。しかしナゼそこに私がいないのだろう・・・

試合の調印式は15年くらい前としか感じられない昭和29年11月27日に鎌倉の松竹大船撮影所にて行われました。 何でそんな所でと言えば、ちょうどそのころ力道山先生は映画の撮影中だったのであります、人気者はとても忙しいのですな。

素敵なジャケットを羽織ってキャデラックのコンバーチブルに乗り颯爽とやって来た力道山先生、対して木村七段は地味な背広にネクタイで湘南電車に乗って到着となりました。 この時点ですでに二人はあまりにも対照的で、その後の流れを暗示していたかのようです・・・・

 

柔道が勝つか、プロレスが勝つか「巌流島の決闘」と呼ばれたこの試合はまさに生きるか死ぬかで、負けた方の人気は果てしなく下がる事は誰にでも予想出来ました。 実は事前に二人の打ち合わせが有り、最初は引き分けで次はこっちが勝ってその次はそっちが勝つ、その流れで興行を続けてビッグビジネスだぜ!!という話も有ったと言われていますが、お二人共鬼籍に入ってしまった現在では真相は闇の中なのであります・・・・・・・

こうして初の日本選手権試合は14年くらい前としか思えない昭和29年12月22日に東京は蔵前国技館にて1万5000人の大観衆を集め開催されました。 当然プラチナチケットとなりましたが、まだヤフオクもないので購入はさぞ大変だった事でしょう。しかしナゼそこに私がいないのだろう・・・・

前座を含む他の試合が全て終わった後、テレビとラジオで全国中継のメーンイベント61分3本勝負「力道山対木村政彦」は夜の9時19分にゴングが鳴りました。 返す返すもナゼそこに私がいなかったのだろう・・・

試合はクリーンなファイトで始まり、お互いの技を出し合い意外と静かな流れで進んでいました。 事前の話し合いが有ったとすれば、このままやったりやられたりで引き分けで終わっていたはずでした。 しかし力道山先生はその話が有ろうとなかろうと、この試合には負けるわけに行かないと考えていたと思われます。 対して木村七段はあくまでこの試合はビジネスと割り切り、引き分けを考えて試合に挑み結局「鬼の木村」にはなり切れなかったのでなないでしょうか・・・

15分が経過した頃、キックを放った木村七段のつま先が力道山先生の急所に当たり試合の流れは一変しました。 急所キックを「反則」とみなした先生は突然形相が変わり「試合」から「ケンカ」に変わってしまい、張り手と反則のはずの空手チョップの応酬で無茶苦茶なケンカ攻撃を仕掛け、逆に反則をアピールする木村七段を殴り倒してしまいました。血だらけでマットに横たわる木村七段は15分49秒でKO負けを喫してしまいました。

 

2本目はあまりのダメージで木村七段は戦意喪失となり、ドクターストップの様な形で試合終了、これにより力道山先生は初の全日本選手権チャンピオンとなったのでした。

 

You Tubeでこの試合の映像は見れますが、木村七段の力道山先生の急所へのキックは、試合の流れの中で「なんとなくつま先が触れただけ」のようにも見えるのです。 しかし、ビジネスマン力道山先生はこれは相手を問答無用でぶっ殺すチャンスととらえ、反則攻撃に対する報復として一気に試合を決めてしまおうと思ったのかも知れません・・・

事前の申し入れが有り「ビジネスとしての引き分け」を想定していた木村七段には信じがたい敗北の結末となりました。 これに対し引き分けの申し入れが有ったとしても「絶対に負ける訳には行かない」と考えていた力道山先生は逆にこの試合を「ビジネスとしての勝負」と考え今後の流れをつかむ為の重要な局面ととらえていたのでしょう。

その差が出てしまった試合となり、その後力道山先生はプロレスを発展させ、ビジネスマンとしても活躍し、隆盛を極め一つの時代を作ったスーパースターとなりました。

対して木村七段はその後も自分のプロレス団体で活動したり、海外に活躍の場を求めたりしましたが、結局力道山戦での敗北が決定的に悪いイメージを作ってしまい、プロレスの世界からはフェードアウトし柔道の指導者としての道を歩みました。 戦前戦後を通じて柔道のスターだった木村七段の名は一気に光を失い、表舞台から消えてしまいました。

もし、その後本当に真剣勝負で力道山先生と再試合をやっていたら、結果はどう転んだかは分かりません。 だって柔道の寝技を駆使されたりしたら、力道山先生もひとたまりもなかったかもしれません・・・・それほど強かった「鬼の木村」なのですから。

13年くらい前としか思えない昭和30年2月10日に二人はあの試合についてこの様な笑顔で和解してしまい、二人が対戦する事は二度となかったのです。 歴史は全て闇に中に消えてしまったのでした・・・

しかし力道山先生は数年後、絶頂の中で若くして命を落としてしまいましたが、木村七段は柔道の指導者として長くご活躍され、とっても長生きされました。

どちらが良かったとかどちらが勝ったとは言えませんが、個性あふれるライバル二人が日本の格闘技界で壮絶な戦いを繰り広げていた、古き良き時代の物語でございました。 どう考えても全くついこの前の出来事なのですが・・・

ライバルといえばその昔、日産セドリックとプリンスグロリアはライバル同士でした。 しかしその後プリンスが日産と合併してしまい、ライバルどころか兄弟車種となってしまい「セドグロ」と呼ばれて和解してしまい巌流島の決闘にはなりませんでした。

  

こちらは青島文化教材社の1/24プラモのセドグロなのですが、素人モデラーの方が組み上げ、Studioにお持ち込み頂きました。 そしてWildmanがFreehand Pinstripeを施し目出度く完成となったのであります。

  

ブルーのモデルのフレームスは、全て筆描きにより仕上げました。グラデーションは点描となっております、ああ大変だ・・・

しかしこちらの魔法の筆、Kazan […]

インフルエンザで快進撃!?DeNAベイスターズ発進だぜ

プロ野球のキャンプも始まり、我が新生「横浜DeNAベイスターズ」も中畑新監督のインフルエンザ感染という形で最高のスタートを切りましたね、さすがです・・・・

親会社はWildmanには縁もゆかりもないゲーム会社のDeNAに決まり、巨人時代には罵声を浴びせ続けた中畑さんが監督になってしまうなど、思いもよらぬ展開のオフシーズンでしたが、何とか本拠地横浜残留となり今後もプロ野球を楽しむ事が出来そうです。

さすがに新潟に行ってしまったらとてもじゃないけど応援する気にもなれませんので40数年にわたるプロ野球趣味生活にピリオドが打たれるところでしたね・・・ 漫画家のやくみつる先生はDeNAが嫌いで横浜ファンをやめてしまいましたが・・・

「男・村田」さんとかいう12球団で一番チャンスに弱い4番バッターが目出度く巨人にFAしてくれて、代わりに統一球にいまいち対応出来ず、落ち目とはいえ2000本安打目前のラミレスが巨人からやって来るという不思議な現象が起こりましたが、横浜にとってはこっちの方が良かったと思います。村田なんかよりも怖いですぜ・・・

横浜スタジアムにて目の前で中日の優勝&胴上げを見せつけられ「あの優勝の輪に入りたいから、ぼくちゃんは強くてお金持ちのチームに移るのさ、そうすれば簡単に優勝出来て楽しいじゃん」という前代未聞の迷言を残し横浜を去った「男・村田」さんでしたが、まあその気持ちも分からなくは無いですね。 横浜は本拠地で他チームの優勝をこれまでに6回も見せつけられているという奇跡的なお人好しなチームなのですから・・・・21回の最下位というのも12球団最多ですが・・・

それにしても横浜ファンに向かって言うような言葉じゃないですよね・・・・まあ、どうせ彼は巨人じゃ夏までに代打専門になりますからどうでもいい事なのですが。各チームが良いピッチャーを当ててくる巨人戦じゃ、とても打てないと思いますよ、横浜だからこそ何とか取れたホームラン王なのですから・・・

ラミちゃんは来日時、大韓航空でやってく来るなど親しみを感じさせ?「やっぱ期待大だぜ」と思ってたらあっさりインフル感染と早くも横浜らしさを体で表してくれました。

素行に問題のある?かつての最多勝左ピッチャーの藤井が「男・村田」の人的保障で巨人からやって来ましたが、最後にもう一花咲かせて欲しいですね。 地元横浜高校出身の筒香、石川、荒波の3人が一皮むけそうで、中日の小池や巨人の鶴岡など、元横浜選手がFAで出戻りしたり、若い国吉というイキのいいピッチャーに期待が持てたりと、ここ数年の間では中畑監督のリップサービス中心にですが、何かとマスコミにも取り上げられるようになり、多少なりとも期待が持てるシーズンです。と言っても期待というのは5位になれるかどうかというレベルなのですが・・・

で、そんな中、この様な本がベースボールマガジン社より出版されました。 「夢をありがとう!横浜ベイスターズ 1993-2011」という一瞬球団消滅を匂わせるようなタイトルで小心者をビビらせましたが、何の事はない今シーズンより親会社が変わり、 横浜ベイスターズから横浜DeNAベイスターズになったので、横浜ベイスターズお疲れ様、それではサヨウナラという感じの物でした。ややこしいなもう・・・

「横浜大洋ホエールズ」から1993年に「横浜ベイスターズ」に変わり、2012年シーズンより「横浜DeNAベイスターズ」となったので、93年から11年までの横浜ベイスターズ時代を振りかえりましょうという、熱心な横浜ファン以外には何とも寂しい内容の本なのです。

親会社がホエールズ時代の大洋漁業からTBSに変わったり、38年振りの奇跡の優勝を果たしたりと激動の横浜ベイスターズ時代でしたが、この本ではやはり優勝したついこの前の98年にスポットを当てて「栄光の1998年V」をいまさら完全再現レポートしています、なんて寂しいのでしょう・・・・

  

大魔神佐々木、マシンガン打線、西武を破って日本一、優勝パレード・・・横浜ファンにとっては数少ない良い思い出の時が刻まれています、ああ胸が熱くなりますねえ。

 

ベイスターズ初年度の93年には横浜移転前年の77年から抑えのエースとして活躍して来たヒゲの「斉藤明夫」が引退されていましたね。 新人王、セーブ王と弱小大洋時代を支えてくれた偉大な選手でありました。 こちらの色紙は横浜大洋時代に頂いたサインになります、ああ有り難や・・・・

 

こちらのサインは現在はファームの打撃コーチである高木由一さんの選手時代の物です。 ついこの前の1980年9月23日対阪神タイガース22回戦の時に頂きました。この日は横浜スタジアムでハマケイの鶏のから揚げセットを食べた記憶が残っております。 まったく先週の出来ごとのように感じますね・・・

 

元祖裏切り者?として横浜ファンの思い出に残る82年の首位打者、長崎慶一さんから頂いたサイン色紙には「孝洋君へ」と私宛ての物になってます。

この人、阪神に移籍してから自分の歴史の中で大洋時代を抹殺しているようでして 12年在籍の大洋時代、3年在籍の阪神時代では阪神の方に重みを置いておられます。経営する焼肉店看板や荒川区議選出馬時のポスター等、全て「元阪神」で押し通しております・・・・まあ85年の阪神優勝時にはそれなりに貢献してるので御本人の勝手ですから。もっとも商売上は「元阪神」の方が聞こえが良いですからね、気持ちもわかります。

そんなこんなで横浜大洋&ベイスターズ時代の選手サインは他にも色々と手元にありますが、あと30年以内の優勝を夢見て今後も大切に保管しておきます。

2012年は「横浜DeNAベイスターズ」元年となりましたが、報道陣を集める事と元気の良さが取り柄の中畑新監督の元、多少変わったメンバーでとりあえず5位を目指しますので横浜ファンの皆様は期待して応援致しましょう、失うものは何も有りませんから・・・

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夢か幻か、マックイーン・マシンズはミニカーと共に

さてしつこく先週からのお話の続きなのですが、俳優スティーブ・マックイーンといえば劇中でもプライベートでもクルマとの絡みが多かった方でした。 彼の一番の強いイメージといえば先週お話しした映画「ブリット」の中での’68ムスタングなのですが、あれはあくまで映画の中での愛車なのです。

プライベートでの彼のイメージと言えば、私的にはやっぱり’57ジャガーXKSSにつきますね。 だってこの車自体が最高にカッコよくて私が子供の頃より大好きな車なのです。

1955年から3年連続でルマン24時間レースを制したのはジャガーDタイプでした。 ストレートシックスの3,4リッターDOHC XKエンジンを搭載したDタイプは歴史に残るレーシングカーですが、何といっても特徴的なのは運転席後部より伸びる垂直尾翼なのです。Wildman的にはこのデザインがたまらないのです、カッコイイゼ!!

オタマジャクシのような両生類的なデザインはフロントエンジン時代のレーシングカーの最高峰だと思っております、本当に・・・

で、当時ジャガーのファクトリーには最先端レースカーとしての使命を終えた市販Dタイプの売れ残り分25台が有りましたが「売れないのなら保安部品を付けてロード・バージョンにして売ってしまいましょう」というどちら様かの無鉄砲なアイデアにより、公道仕様の限定版GTカー「ジャガーXKSS」が作られました。 Dタイプの垂直尾翼を取っ払ってソフトトップを付け、内装も革張りのシートにし、脱着式のサイドカーテンや助手席側のドアー、火傷しない程度のサイドマフラーを装備して一丁上がり! という感じでレースカーまがいのGTカーが作られちゃいました、良い時代でしたね・・・・

しかし1957年にジャガーの工場が大火災にあい、残っていた25台のDタイプの内、XKSSに改装されたのは16台だけに過ぎず、あとの9台は治具やパーツとともに焼失してしまいました、残念無念・・・ なのでXKSSはこの世に16台しか存在しないとっても貴重なクルマなのでした。

 

マックイーンはこの車を1958年にハリウッドのサンセット・ブルーバードで見つけて、5,000ドルで購入しました、彼で3オーナー目だそうです。 アイボリーだったボディをブリティッシュ・グリーンに塗り替え、内装のレザーをドラッグ・レーサーのトニー・ナンシーに貼り替えてもらい、グローブボックスには何とヴォン・ダッチが金属でカバーを作ったそうです!!有名どころで固めてみましたという感じですね。 XKSSは「グリーン・ラット」というニックネームを付けてられてマックイーンのお気に入りクルマとなりました。 でもスピード違反の切符切られまくりで、マックイーンは免許を失いかけたそうです・・・

 

その後1967年にハーラー・ミュージアムに売却されましたが、10年後マックイーンが買い戻しました、やっぱりお気に入りだったのですね・・・ 没後、1984年に遺産オークションで148,000ドルで売却され、その後2000年になってピーターセン・ミュージアムのもとに行き映画スターの愛車コレクションとなっております。 現在ではXKSSは3,000,000ドルの資産価値が有ると言われております・・・・

で、前置きが終わってやっとミニカーのお話になるのでした、もちろん当時物で。

その昔、英国にはSPOT-ON「スポットオン」というミニカー・ブランドがありました。偶然にも何とジャガー社同様1967年に工場火災が起こり消えてしまったブランドなのです、恐ろしい・・・・

スポットオンは1960年代当時、火事の前にこの貴重なXKSSをちゃんとミニカー化してくれておりました、感謝感激なのであります。日本にも当時ごく少量が輸入されてました。

 

マックイーンのグリーンラット号と同じこの緑色の個体は、ついこの前の1984年に横浜のビッグ・ボーイにて捕まえたオタマジャクシであります。スポットオン独特のゆるキャラ的な作りが両生類のXKSSにとっても合っているのでした。

 

XKSSのベースとなったDタイプのミニカーを並べてみました。垂直尾翼付きのDタイプのミニカーは同じく英国のCRESCENT「クレセント」というブランドで今から50年以上前のDタイプ現役時代に作られたミニカーなのです。ちなみにゼッケン4は1956年の優勝車両ですね。 こうして並べると、兄弟車両としての2台の雰囲気が伝わってきますね、最高です!! ミニカーならDタイプもXKSSもオーナーになれるのでありました。

 

そしてこちらの問題の2枚の写真なのですが、こちらは10年以上前に、私めがカリフォルニアで撮った物なのです。 まだ存命だったMooneyes伝説のボンネビル・レーサー「フレッド・ラーセン」がSCTAから表彰されるというイベントがありまして、その時たまたまアメリカ出張中だった私もナゼかノコノコと付いて行きました。 始まるまで時間が有ったので会場裏のParkingでいろんなクルマの写真を撮っていると、そこには夢か幻かジャガーXKSS様が鎮座されているではないですか!? あまりの事態に興奮しまくりましたが、どう見てもレプリカではなく本物のXKSSに見えます。 「まさかマックイーンのクルマか??」と思いましたが、あれは緑色なのでこれは違うだろうと、その時は勝手に解釈しておりました。

そうこうするうちにイベントが始まったので、会場内に入りしばらくしてからもう一度Parkingに戻るとそこにはすでにXKSSの姿はございませんでした・・・・・なんでこうなるの・・・・

ピーターセン・ミュージアムに行く前の遺産オークションで買ったオーナーはマックイーンの友人で元の自宅の(ハリウッド)隣人だったとのことで、このあたりをあのXKSSがウロウロしていてもおかしくはなかったのです。

あれはいったい何だったのでしょう?? 今思うとその後マックイーンのXKSSは濃紺のような色に塗り替えられて現在の姿になっているので、もしや私が見たのはマックイーンズ・マシンその物だったのではないか?? いや、きっとそうにきまってる!!と勝手に良い方向に解釈する今日この頃であります・・・

夢か幻か、Wildmanの白昼夢はまだまだ続くのです。

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